吉川経礼
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政5年11月3日(1793年12月5日) |
死没 | 天保7年11月26日(1837年1月2日) |
改名 | 監物(幼名)、経礼 |
戒名 | 謙光院慈雲藤蔭 |
墓所 | 山口県岩国市横山の洞泉寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利斉房、斉熙、斉元 |
藩 | 周防岩国領主 |
氏族 | 吉川氏 |
父母 | 吉川経忠、吉川経賢 |
兄弟 | 経賢、経礼、経章、礼成 |
妻 | 木下俊懋娘円成院、毛利就馴娘豊子 |
子 | 経章(養嗣子) |
吉川 経礼(きっかわ つねひろ)は、江戸時代後期の周防国岩国領10代領主。
生涯
[編集]寛政5年(1793年)11月3日、第8代領主・吉川経忠の次男として生まれる。文化3年12月26日(1807年2月3日)、兄で第9代領主の経賢が早世すると、翌4年2月14日(1807年3月22日)その末期養子として家督を相続した。文化6年(1809年)6月27日、門前口から尾津沖にかけての開作(干拓)事業を開始する。文化8年(1811年)9月には、麻里布湊(現・岩国港新港地区)の建設を開始し、港会所を設置する。文化9年(1812年)8月20日、綿座を廃止して錦見町に綿用場を設置する。天保7年11月26日(1837年1月2日)死去、享年44。家督は弟で養子となった経章が翌8年(1837年)1月19日に継いだ。
経礼は干拓事業を盛んに行って税収を増やす一方で、綿作など商品作物の発達を背景に麻里布港を建設し、他藩との取引を積極的に行なって財政改革を成功させた。