石経守
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文6年7月12日[1](1537年8月17日) |
改名 | 吉川経守→石経守(伊志経守) |
別名 | 通称:七郎兵衛尉[1] |
戒名 | 覚性院随翁慶順[1] |
主君 | 吉川経基→国経→元経→興経 |
氏族 | 藤姓吉川氏庶流石氏(伊志氏) |
父母 | 父:吉川経基[2] |
兄弟 |
吉川国経[2]、吉川夫人(尼子経久室)[2]、 女(笠間刑部少輔室)[2]、吉川四郎[1]、 女(小河内清信室)[1]、経守、 女(綿貫忠澄室)[1]、国衙光経[1][3]、 女(多賀某室)[1]、女(三須清成室)[1]、 江田経純[1][3]、女(波根泰次室)[1]、 筏経法[1][3]、女(気比大宮司某室)[1]、 女(鷹司兼輔継室)[1] |
子 | 経直[4]、春盛[4]、市川局(市川経好正室)[注釈 1]、藤次郎[4] |
石 経守(いし つねもり)は、戦国時代の武将。安芸国の国人・吉川氏の一門。父は吉川氏当主である吉川経基。
生涯
[編集]安芸国の国人・吉川氏当主である吉川経基の三男として生まれる[2]。安芸国山県郡石村[注釈 2]を本拠とし、「石(伊志)」の名字を名乗った[6]。
永正18年(1521年)10月26日、兄・国経に与谷城の在番を命じられ、寄国4町6反、與谷原5反、舞綱2町の地を与えられる[7][8]。
天文6年(1537年)7月12日[1]に死去[1]。嫡男の経直が後を継いだ[4]。
その後の石氏は、江戸時代には岩国領主・吉川氏の家臣として続いた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 40.
- ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1966, pp. 39–40.
- ^ a b c 光成準治 2016, pp. 328, 吉川氏系図.
- ^ a b c d 大朝町史 上巻 1978, p. 191.
- ^ 『閥閲録』巻140「市川三右衛門」、市川氏系譜。
- ^ 木村信幸 2016, p. 55.
- ^ 『大日本史料 第九編之十三』所収、「吉川家中幷寺社文書」三 石家御書類写、永正辛巳(永正18年、1521年)10月26日付、七郎兵衛(石経守)宛て吉川国経書状。
- ^ 『大日本史料 第九編之十三』所収、「吉川家中幷寺社文書」三 石家御書類写、永正18年(1521年)10月26日付、石七郎兵衛(石経守)宛て宮庄下総守(資益)・(吉川)式部丞経世連署状。