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石経守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石経守
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文6年7月12日[1]1537年8月17日
改名 吉川経守→石経守(伊志経守)
別名 通称:七郎兵衛尉[1]
戒名 覚性院随翁慶順[1]
主君 吉川経基国経元経興経
氏族 藤姓吉川氏庶流石氏(伊志氏)
父母 父:吉川経基[2]
兄弟 吉川国経[2]吉川夫人尼子経久室)[2]
女(笠間刑部少輔室)[2]吉川四郎[1]
女(小河内清信室)[1]経守
女(綿貫忠澄室)[1]国衙光経[1][3]
女(多賀某室)[1]、女(三須清成室)[1]
江田経純[1][3]、女(波根泰次室)[1]
筏経法[1][3]、女(気比大宮司某室)[1]
女(鷹司兼輔継室)[1]
経直[4]春盛[4]市川局市川経好正室)[注釈 1]藤次郎[4]
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石 経守(いし つねもり)は、戦国時代武将安芸国国人吉川氏一門。父は吉川氏当主である吉川経基

生涯

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安芸国国人吉川氏当主である吉川経基の三男として生まれる[2]安芸国山県郡石村[注釈 2]を本拠とし、「石(伊志)」の名字を名乗った[6]

永正18年(1521年10月26日、兄・国経与谷城の在番を命じられ、寄国4町6反、與谷原5反、舞綱2町の地を与えられる[7][8]

天文6年(1537年7月12日[1]に死去[1]。嫡男の経直が後を継いだ[4]

その後の石氏は、江戸時代には岩国領主・吉川氏の家臣として続いた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 市川局の父としては同じく吉川氏一門である宮庄基友とする説もある[5]
  2. ^ 現在の広島県山県郡北広島町上石・下石・海応寺

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 40.
  2. ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1966, pp. 39–40.
  3. ^ a b c 光成準治 2016, pp. 328, 吉川氏系図.
  4. ^ a b c d 大朝町史 上巻 1978, p. 191.
  5. ^ 閥閲録』巻140「市川三右衛門」、市川氏系譜。
  6. ^ 木村信幸 2016, p. 55.
  7. ^ 大日本史料 第九編之十三』所収、「吉川家中幷寺社文書」三 石家御書類写、永正辛巳(永正18年、1521年)10月26日付、七郎兵衛(石経守)宛て吉川国経書状。
  8. ^ 『大日本史料 第九編之十三』所収、「吉川家中幷寺社文書」三 石家御書類写、永正18年(1521年)10月26日付、石七郎兵衛(石経守)宛て宮庄下総守(資益)(吉川)式部丞経世連署状。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 大朝町史編纂委員 編『大朝町史 上巻』1978年3月。全国書誌番号:81001285 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 木村信幸「戦国後期における吉川氏の権力構成―親類衆・奉行人を中心にして―」 光成準治編著『シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家』戎光祥出版、2016年11月、44-99頁。初出は『史学研究』第259号、2008年。
  • 閥閲録』巻140「市川三右衛門」