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相合大方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

相合大方(あいおうのおおかた、生年不詳 - 元亀元年11月11日1570年12月8日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。安芸国国人である毛利弘元の三女で、毛利氏家臣である井上元光の正室。異母兄に毛利興元毛利元就。異母姉に宮姫武田氏室)。同母姉に八幡新造渋川義正正室)。同母弟に相合元綱。同母妹に松姫吉川元経正室)、竹姫井原元師正室)。異母弟に北就勝見付元氏。法名は「慈性院殿念蓮日照妙教大姉」[1][2]

生涯

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生年は不明だが、安芸国国人である毛利弘元の三女として生まれる[1]。母は毛利弘元の側室で、毛利氏当主となる毛利興元毛利元就は異母兄にあたり、同母弟に相合元綱がいる[1]

永正3年(1506年1月21日に父の毛利弘元が死去する[1]

毛利氏家臣の井上元在(後の井上元光)の正室となり[1][2]、嫡男の井上元義を生む。

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて毛利元就によって安芸井上氏が粛清された際に、相合大方の夫である井上元在は元就の妹婿であることから粛清を免れ、同年8月1日に「井上元光」と改名して安芸井上氏の宗家を相続した[3][4]

永禄10年(1567年2月18日に夫の井上元光が死去し[4]、嫡男の元義が家督を相続する。

元亀元年(1570年11月11日に死去[1]。法名は「慈性院殿念蓮日照妙教大姉」[1][2]。安芸国高田郡吉田知光坊に葬られ、相合大方の法名から「慈性山蓮華寺」と改称した[注釈 1][5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 蓮華寺は相合大方の異母兄の毛利興元が上洛した際に、妙満寺の第17世住持である日誠に帰依し、永正8年(1511年)に安芸国高田郡吉田に創建した知光坊を前身としている[5]

出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 高田郡史編纂委員会 編『高田郡史 上巻』高田郡町村会、1972年8月。全国書誌番号:73022373 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:21490091 
  • 萩市史編纂委員会 編『萩市史 第3巻』萩市、1987年3月。全国書誌番号:87030520 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」 河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年、243-286頁。