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毛利高直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利高直
時代 江戸時代前期
生誕 寛永7年(1630年
死没 寛文4年8月3日1664年9月22日
改名 市三郎、高直
戒名 長川院
官位 従五位下伊勢守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
豊後佐伯藩
氏族 毛利氏
父母 毛利高成佐久間安政の3女
兄弟 高直川口宗重
正室牧野信成の娘
高重戸田忠真正室
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毛利 高直(もうり たかなお)は、江戸時代前期の大名豊後国佐伯藩の第3代藩主官位従五位下伊勢守

略歴

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寛永7年(1630年)、豊後国佐伯藩第2代藩主・毛利高成の長男として誕生。幼名は市三郎。

父の死から翌年の寛永9年(1632年)、4歳で家督を継いだ。ところが幼少だったため、伯父(高成の庶兄)の高定(高明)を擁立する一派が現われた。一派の中心人物は初代藩主高政の弟で大叔父にあたる毛利吉安で、一門衆として知行2000石は家中随一の大禄だった。一時は御家騒動にまで発展したが、この争いは高直派が勝利した。敗れた吉安は潔しとせず、自らの領知を幕府に返上して旗本となる。高定も300俵の旗本に召抱えられた。

高直は幕府の命を受けて内裏の普請を務めている。また、幼少で藩主となったため、家老並河信吉磯部三左衛門らの補佐を受けたが、その並河の一族と磯部が藩政の主導権をめぐって対立するなど、藩政は多難を極めた。

寛文4年(1664年)8月3日、35歳で死去し、跡を長男高重が継いだ。法号は長川院。

系譜

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父母

正室

子女