毛受勝照
「太平記英勇伝三十四:毛受荘助家照」 (落合芳幾作) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄元年(1558年)8月 |
死没 | 天正11年4月21日(1583年6月11日) |
改名 | 照景→庄助家照→勝助勝照 |
別名 |
照景、家照、吉親[1] 通称:庄助・荘助・荘介、勝助・勝介[2] |
戒名 | 榮中院殿繁室永昌居士 |
墓所 | 滋賀県長浜市余呉町全長寺、愛知県尾張旭市稲葉町少林寺 |
主君 | 柴田勝家 |
氏族 | 毛受氏 |
父母 | 父:毛受照昌 |
兄弟 |
[説1][3]茂左衛門、勝照 [説2][4]勝惟、勝照、吉勝 |
子 |
[説1]照清 [6] [説2]重之 [4] |
毛受 勝照(めんじゅ/めんじゅう[7] かつてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣。
諱は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある[1]。通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった[2]。
略歴
[編集]尾張国春日井郡稲葉村(現在の愛知県尾張旭市稲葉町)の人[8]。新居城[9]主水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。 毛受氏の出自については諸説あり、『稿本 毛受勝照』では、現在の一宮市大和町毛受が発祥である説、和泉国の百舌鳥氏が訛って毛受となった説、水野氏とは無縁である説等が考察されている。
12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えられるまでになった[10][8]。
17歳の時、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。これを勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った[11]。
勝家は荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝介に[12]、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣[12]。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25[12]。
秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野に戻したと云う[12]。
脚注
[編集]- ^ a b 『明智軍記』など幾つかの史料で「吉親」とされているものがある。
- ^ a b 史料によって、同音の漢字が置き換えられることはしばしばみられることで、同じ名前をさす。
- ^ 『豊鑑』『太閤記』『東春日井郡』などによる。
- ^ a b 『尾張群書系図部集』による。
- ^ 子孫として、照清、吉兵衛、喜左衛門、喜三郎、四郎左衛門等としているので、吉兵衛以下は孫より先の代か。
- ^ 東春日井郡 1923, p.1166[5]
- ^ 毛受の姓の読み方は「めんじゅ」「めんじゅう」または「めんじょ」「めんじょう」など。『佐久間軍記』では「免受」の漢字が当てられている。
- ^ a b 岡田 & 野口 1880
- ^ 在・愛知県尾張旭市城山町長池下。
- ^ 東春日井郡 1923, p.1165
- ^ 東春日井郡 1923, pp.1165-1166
- ^ a b c d 東春日井郡 1923, p.1166
参考文献
[編集]- 東春日井郡 編「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受家照」『東春日井郡誌』東春日井郡、1923年 。
- 岡田啓 (文園); 野口道直 (梅居)「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受庄助家照」『尾張名所図会. 後編巻4 春日井郡』片野東四郎、1880年 。
- 田山花袋「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受勝助の墓」『花袋行脚 : 史蹟名勝』大日本雄弁会、1925年 。
- 尾張群書系図部集 第3巻