毛受茂左衛門
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正11年4月21日(1583年6月11日) |
別名 | 勝惟 |
墓所 |
滋賀県長浜市余呉町全長寺 愛知県尾張旭市稲葉町少林寺 |
主君 | 柴田勝家 |
氏族 | 毛受氏 |
父母 | 父:毛受照昌 |
兄弟 |
[説2][2]勝惟、勝照、吉勝 |
毛受 茂左衛門(めんじゅ/めんじゅう[3] もざえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣。毛受家照の兄。
概要
[編集]賤ヶ岳の戦いでの敗戦に際し、弟家照は「退却して母を扶養すること」を頼んだが、茂左衛門は「義を好む母の意に背く」と断り、天正11年(1583年)4月21日、弟ともに討死にした。
略歴
[編集]尾張国春日井郡稲葉村(現在の愛知県尾張旭市稲葉町)の人[4]。新居城[5]主水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。
賤ヶ岳の戦い
[編集]天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、弟の勝介がこれを諫めて、退却して籠城するように進言。
自らが代って戦うとして兵300を率いて出陣。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。 この時、弟勝介に「兄弟で討死しよう」と言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。 しかし、茂左衛門は、「義を好む母に対してそれは却って不孝である」と言って拒否し、兄弟二人で進んだ。
弟勝介と共に「我は柴田修理亮勝家なり!」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。 勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。
秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。 なお毛受の子孫は、尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を「水野」に戻したと伝わる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 東春日井郡 編「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受家照」『東春日井郡誌』東春日井郡、1923年 。
- 岡田啓 (文園); 野口道直 (梅居)「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受庄助家照」『尾張名所図会. 後編巻4 春日井郡』片野東四郎、1880年 。
- 田山花袋「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受勝助の墓」『花袋行脚 : 史蹟名勝』大日本雄弁会、1925年 。
- 尾張群書系図部集 第3巻