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毛文錫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛 文錫(もう ぶんしゃく、もう ぶんせき[注 1]、生没年不詳)は、中国五代十国時代前蜀後蜀の大臣、花間派人。平珪。高陽(現在の河北省保定市高陽県)の人。太僕卿毛亀範の子。

経歴

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唐末に14歳で進士に及第した。唐滅亡後、十国の一つ王建前蜀に仕官し、中書舎人中国語版翰林学士に任ぜられ、翰林学士承旨に遷される。永平4年(914年)8月、礼部尚書・判枢密院事に遷る。通正元年(916年)8月、文思殿大学士を兼ね、次いで司徒を拝したが、天漢元年(917年)8月、罪を得て茂州司馬に貶された。前蜀が後唐に滅ぼされて(925年)後、前蜀の後主王衍に随って洛陽に降って卒したというが、一説には、幾ばくもせぬうちに[1]また後蜀孟知祥に仕え、欧陽炯と共にその宮廷に仕え、文章の制作に携わった[2]。孟知祥の死後、その子の後主孟昶に欧陽炯ら4人と共に寵愛され[1]、とりまきになって艶詞を事とし、遊宴にうつつを抜かして、国を滅ぼした、という[3](しかし#後述のように『資治通鑑』には名家臣としての一エピソードも載せられており、この悪評は、名分論を重んずるようになった代以降に、主君の鞍替えを繰り返した人物に対する嫌悪感が増したことによって根拠無く生じたものかもしれない)。

詞の評価

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その詞は温(温庭筠)・韋(韋荘)の詞風を出ないものだという[2]。毛文錫は『花間集』にはたまたま佳句が多いけれども、多くは芸術性が高くなく、情趣に深みを欠く、という。その原因として、その詞の多くは主君に奉るための作品であり、もとより凡庸に流れがちだからだ、という[4]。しかし、『全唐五代詞』(2008年)では、毛文錫は「音律に通じ、詩詞に巧みであり、当時、その名はかなり重んじられた(文錫通音律,能詩工詞,時名頗重[注 2])」とある。彼の巫山一段雲詞はその当時、世に伝誦されたという[2]

代表詞と注釈

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代表詞

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巫山一段雲[* 1]
白文 書き下し文 訳文
雨霽巫山上 雨は巫山ふざん[* 2]の上 雨が止んで晴れ上がった巫山の上空に
雲輕映碧天 雲 軽く 碧天へきてんえい 雲は軽やかに真っ青な空に
遠風吹散又相連 遠風 吹き散じてあいあいつらなる 遠くから風が吹き散らしても、それが連綿と連なり続いていく
十二晩峯前 十二晩峯の前[* 3] 夕暮れせまる巫山十二峰の前
暗濕啼猿樹 暗湿たるく猿[* 4]の樹 猿がき叫ぶ暗く湿った樹々が
高籠過客船 高くめて 客船をごす 高々と両岸から覆い被さり、巫峡[* 5]を渡る客船を通す
朝朝暮暮楚江邊 朝朝暮暮 楚江のほとり[* 6] 朝な夕なに楚国にある長江河畔にいると
幾度降神仙 幾度いくたびか神仙をくださん[* 6] 何度、仙女を降すのか(また天降ってきそうだと思う)

注釈

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  1. ^ 「巫山一段雲」は題名ではなく詞調名(詞牌)だが、この作品では内容と一致している。この場合を「本意」という。
  2. ^ 巫山は、重慶市巫山県湖北省の境にある古くから知られた名山
  3. ^ 巫山は十二の秀でた峰で有名であり、巫山十二峰と言われる。
  4. ^ 鳴く猿、または猿の鳴き声は、中国古典詩文では、胸張り裂けそうな悲しみを象徴する。
  5. ^ 巫峡は巫山を貫流する長江の峡谷で、景勝であると共に急流の難所としても有名。
  6. ^ a b 春秋戦国時代、繁栄を誇ったを流れる長江の河畔の意。江だけで長江を指す。有名な巫山の神女の伝承に基づく。

この詞は、情景描写も見事で、前闋([ゼンケツ]、前半部)の巫山上空の湿っぽい雨からの晴れ上がりから雲が吹き崩されて流れていき、すでにその間に巫山十二峰の前に夕暮れが迫っているという情景転換の見事さ、後闋([コウケツ]、後半部)の巫山山麓の暗く湿った情景を描写した上で、そこに濡れそぼる巫山神女の伝承が当てはまり、作者は今はまさに神女の天下りに臨場感を持ったと評しているのである。しかし巫山神女の伝承を使っていて分かりやすいものの、その内容が湿っぽく濡れそぼったモチーフであると共に、余りにもよく知られたものであることも含めて俗流に堕している感も否めない。#詞の評価にある指摘は故無しとは言えないかもしれない。

作品および事跡等に関する資料

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著書に『前蜀紀事』2巻、『茶譜』1巻があり、『花間集』には彼の詞が31首収録されている[5]。その事跡は、『十国春秋』の本伝があり、陳尚君『花間詞人事輯』が参考になる[1]。『十国春秋』巻41、『歴代詩余』巻101「詞人姓氏」、『全唐詩』巻32、『毛司徒詞』王国維輯〈唐五代二十一家輯〉所収[2]

エピソード

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かつて、前蜀帝王建が堰を決壊させて江陵を水没させようとしてはいけないと努めて諫め、多数の一般庶民の生命を救い出したことがある。

決壊事件

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前蜀帝国は、長江上にを築いていた。914年、高季興(元の名は高季昌)の荊南王国は江陵に拠点を持っており、ある人が王建に、夏秋の水が漲る時季に合わせて堰を決壊させ、江陵を大量の水で水没させることを勧めた。毛文錫は止めるよう勧めた。「ただ高季興一人の不服従に過ぎません。陛下は恩徳をもって天下を服せしめるのに、どうして隣国の一般庶民を魚やのエサにさせる事に心から耐えられるのですか?」と。王建はそこですぐに行なうのを止めた。[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 漢文では音読みは通常漢音を使い、錫の漢音は「セキ」だが、劉禹錫(りゅううしゃく)と同様、「もうぶんしゃく」と読むのが一般的らしい。
  2. ^ 「文錫 音律に通じ、詩を能(よ)くし詞に工(たく)みにして、時名 頗(すこぶ)る重んぜらる。」音律とは音階十二律)のことで、転じて広く音楽のことを指す。ここでは音楽の技能や音感のこと。

出典

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  1. ^ a b c 曾昭岷; 曹済平; 王兆鵬; 劉尊明 (2008) [1999]. 孫通海. ed. 全唐五代詞 (第2次印刷 ed.). 北京: 中華書局. pp. 528,529. ISBN 9787101016093 
  2. ^ a b c d 『歴代名詞選』集英社漢詩大系〉、1965年、406-407頁。 
  3. ^ 『李煜』岩波書店中國詩人選集〉、1959年、140頁。 
  4. ^ 孔, 范今 (1998). 責任編輯 呉秉輝、郭継明. ed. 全唐五代詞釋注. 西安: 陝西人民出版社. pp. 1139-1140,1153. ISBN 7224046949 
  5. ^ 上掲、中田, 1965によれば、王国維の輯本では1首を増補しているという
  6. ^ 資治通鑑巻269「均王(上) 乾化四年」「峽上有堰,或勸蜀主乘夏秋江漲,決之以灌江陵。毛文錫諫曰:「高季昌不服,其民何罪!陛下方以徳懐天下,忍以鄰國之民為魚鱉食乎!」蜀主乃止(峡に堰あり、或は蜀主に勧めて、夏秋の江の漲るに乗じて、之れを決して江陵を灌がんと。毛文錫 諫めて曰く、「高季昌 服せざるも、その民 何の罪ぞ! 陛下 方に徳を以て天下を懐かんに、隣国の民を以て魚鱉の食と為すに忍びんか!」蜀主 乃ち止む)」