水野忠丘
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水野 忠丘(みずの ただおか、寛永18年(1641年)- 宝永4年12月4日(1707年12月27日))は、江戸時代の旗本。水野成貞の次男。母は蜂須賀至鎮の娘・正徳院。通称は又八郎。初名、成春。室は幡頭小笠原氏の娘。
生涯
[編集]寛文4年(1664年)3月27日、兄の水野成之に連坐し、母・正徳院とともに蜂須賀光隆に預けられた。元禄元年(1688年)7月末日に赦され、蜂須賀綱矩のもとに居候した。
元禄13年(1700年)5月20日に召し出されて小普請となり、翌年12月初日に将軍徳川綱吉に拝謁を許され、25日に蔵米300俵を賜った。
宝永4年、67歳で没した。法名は義英。墓所は三田の功運寺(現在は中野区上高田)。家督は子の水野忠位(ただつら)が継いだ。忠位の没したのちは、その子の忠豊が継いだが7歳で早世、忠丘の四男で忠位の弟の水野勝美が継いだ。
参考文献
[編集]- 寛政重修諸家譜巻第三二九