水野成貞
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長8年(1603年) |
死没 | 慶安3年10月20日(1650年11月13日) |
戒名 | 自光院殿前雲州太守雄安賢英大居士 |
墓所 | 広島県福山市の賢忠寺 |
官位 | 出雲守 |
幕府 | 江戸幕府旗本(小姓→寄合) |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 知行・1000石→3000石 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野勝成 |
兄弟 |
勝俊、成言、成貞、 勝則、勝忠 |
妻 | 萬の方(正徳院、蜂須賀至鎮の娘) |
子 |
成之(長男)、忠丘(次男)、 娘(賀嶋政玄[1]室)、娘(稲田稙春[2]室)、 娘(山崎幸玄[3]室) |
来歴
[編集]慶長8年(1603年)、三河刈谷藩主[4]水野勝成の三男として生まれる。元和5年(1619年)6月、徳川家光の小姓となり、寛永元年(1624年)12月、1000石を賜り、翌年2年9月に加増され3000石を領し、小姓から寄合となる。
慶安3年(1650年)10月20日に死去。享年48。長男の成之(十郎左衛門)が跡を継いだ。
旗本奴
[編集]息子の成之(水野十郎左衛門)は旗本奴として著名であるが、父親の成貞も傾奇者・初期の旗本奴として行動していた、とされている。奇抜な髪型をして髑髏の模様の服を着用し、刀の柄を棕梠で巻いたもので揃えた仲間達と街を闊歩した、とされている。のちに正室となる萬の方はその姿に惚れ込んでしまい、ゆえに婚儀がまとまった、とする巷説もある。
補注
[編集]関連項目
[編集]- 隆慶一郎著『傾いて候』(モデルとなった時代小説)