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水野成貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水野成貞
時代 江戸時代前期
生誕 慶長8年(1603年
死没 慶安3年10月20日1650年11月13日
戒名 自光院殿前雲州太守雄安賢英大居士
墓所 広島県福山市賢忠寺
官位 出雲守
幕府 江戸幕府旗本小姓寄合
主君 徳川家光
知行・1000石→3000石
氏族 水野氏
父母 父:水野勝成
兄弟 勝俊成言成貞
勝則勝忠
萬の方(正徳院蜂須賀至鎮の娘)
成之(長男)、忠丘(次男)、
娘(賀嶋政玄[1]室)、娘(稲田稙春[2]室)、
娘(山崎幸玄[3]室)
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水野 成貞(みずの なりさだ)は、江戸時代前期の旗本

来歴

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水野成貞公墓所 (福山市若松町)

慶長8年(1603年)、三河刈谷藩[4]水野勝成の三男として生まれる。元和5年(1619年)6月、徳川家光の小姓となり、寛永元年(1624年)12月、1000石を賜り、翌年2年9月に加増され3000石を領し、小姓から寄合となる。

慶安3年(1650年)10月20日に死去。享年48。長男の成之(十郎左衛門)が跡を継いだ。

旗本奴

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息子の成之(水野十郎左衛門)は旗本奴として著名であるが、父親の成貞も傾奇者・初期の旗本奴として行動していた、とされている。奇抜な髪型をして髑髏の模様の服を着用し、刀の柄を棕梠で巻いたもので揃えた仲間達と街を闊歩した、とされている。のちに正室となる萬の方はその姿に惚れ込んでしまい、ゆえに婚儀がまとまった、とする巷説もある。

補注

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  1. ^ 蜂須賀家家臣、通称は長門守
  2. ^ 蜂須賀家家臣、通称は主税助
  3. ^ 蜂須賀家家臣、通称は小八郎
  4. ^ のち大和郡山藩へ転封し、成貞の出仕と前後して備後福山藩へ転封した。

関連項目

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  • 隆慶一郎著『傾いて候』(モデルとなった時代小説)