水野葉舟
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。
東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。
略歴
[編集]東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。
中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。この頃、高村光太郎、窪田空穂とも知り合い、特に高村とは終生の友となった。
1901年(明治34年)には早稲田大学高等予科に進学。しかし、鳳晶子との仲を疑われ、鉄幹から破門される。やはり新詩社をはなれた窪田が発行した雑誌『山比古』に参加。1902年(明治36年)には早稲田大学経済科に進学。
在学中に植村正久から洗礼を受けキリスト教徒となり、1904年(明治38年)に大学卒業。卒業後しばらくは詩作を続けるが、やがて「水野葉舟」名で「小品文」とよばれる小説作品を発表。自然主義文学の若手作家として名声を高めた。
しかしやがて、怪談・怪異譚の収集、心霊研究に熱中しはじめ、心霊文献の翻訳や、収集した怪異譚を多数発表。1905年には早稲田大学在学中の佐々木喜善(当時は、「佐々木鏡石」名での若手作家であった)と知り合い、彼が語る遠野地方の物語を、「怪異譚」としてとらえて熱中する。
1907年(明治41年)には文学者のサロン「龍土会」で柳田國男とも出会い、怪談への嗜好にはさらに拍車がかかっていく。当時は欧米のスピリチュアリズムの影響を受けた、文壇あげての「怪談ブーム」でもあり、同1907年11月には佐々木を柳田宅に連れてゆき引き合わせ、3人は怪談話で盛り上がった。1908年(明治42年)3月には柳田の訪問に5ヶ月先立って、遠野の佐々木宅を訪問し、現地での体験・見聞を小説化している。
さらに、1922年(大正11年)には、野尻抱影とともに「日本心霊現象研究会」を創設。また、野尻とともに、新光社から「心霊問題叢書」と銘打って、海外の心霊研究資料を翻訳刊行した。
その一方でローマ字普及運動にもかかわり、1919年(大正9年)にはローマ字詩集『SUNA』を刊行。また、「ローマ字ひろめ会」の理事、評議員などを歴任した。
また、トルストイの思想に共鳴して、1924年(大正13年)千葉県印旛郡駒井野(現在は成田市)に三千坪の畑地を購入し、妻子とともに半農生活を送る。また、同地方の自然、民俗、方言などの研究も行った。
1947年(昭和22年)に、63歳で死去。
家族
[編集]- 父・水野勝興(1857年生) - 東京府士族水野勝智の二男[2]。沼津兵学校資業生を経て熊谷県の暢発学校の教員ののち、塚本明毅に師事し、就学生の監督を務める[2][3]。その後農商務省に出仕したが上司の高橋新吉が興した九州鉄道に1888年に転職、1900年には高橋が総裁の日本勧業銀行に移り、1914年に同行監査役となった[2][4][5]。息子・葉舟の友人だった高村光太郎を支援し、光太郎による肖像画が遺されている[6]。
- 母・実子(1862年生) - 夫と同様、高村光太郎による肖像画があり、損保ジャパン東郷青児美術館に所蔵されている。
- 妹・かね(1886年生) - 属最吉の妻[2]
- 前妻・千恵子(1887-1915) - 丸毛利恒の娘[5]。葉舟の父に結婚を反対され、婚前に長女・実子を出産。4人の子を生すが難産がもとで死去[5][7]。義兄(姉の夫)に佐々木指月、古河電気工業専務の荻野元太郞[8][9]
- 後妻・文子 - 画家・伊藤直臣の妹[7]。2児を儲けたが田舎暮らしに耐えきれず子を連れて1933年より別居[5]。
- 内妻・宮本満寿(-1948) - 1937年に女児を出産[5]。葉舟没後妻の文が家に戻ったため、子を連れて実家に戻り、1年後死去[10]。
- 二男・水野清 - 文との子
- 養女・実子(1905年生) - 戸籍では長山一郞の長女[2]。尾崎喜八の妻[11]。
著書
[編集]- 明暗 窪田空穂 金曜社 1906.7
- あらゝぎ 金曜社 1906.7
- 響 新潮社 1908
- 悪夢 白光社 1909.6
- 日記文 文栄閣 1910.11
- 愛の書簡 春秋社 1910.5
- 葉舟小品 隆文館 1910
- 小品作法 文栄閣 1911.7
- 山上より 春陽堂 1911
- 壁画 春陽堂 1911.4
- 妹に送る手紙 実業之日本社 1912
- 女子作文全書 国民書院 1913
- 小品文練習法 新潮社 1915
- 一日一信 一年間の手紙の実例 阿蘭陀書房 1916
- 若き婦人に送る書 現代出版社 1917
- 現代文章作法 莫哀社 1917
- 古今名家書翰集 大日本書翰学会出版部 1917
- 自然の心 阿蘭陀書房 1917
- 手紙の書き方 阿蘭陀書房 1917
- 代表的の美文 アルス 1917
- 模範の日記文 アルス 1917
- 新書簡文作法 止善堂書店 1918
- 紀行文作法 春陽堂 1919
- 四季の文章修行 博文館 1920
- 果のなる木 研究社 1921(中学生叢書)
- 綴方教育に就いて 現代日本の研究 新更会刊行部 1932
- 村の無名氏 人文書院 1936
- アメリカの読本 春陽堂 1936(少年文庫)
- フランスの読本 春陽堂 1936(少年文庫)
- 滴瀝 歌集 草木屋出版部 1940.9
- 食べられる草木 月明会出版部 1942-43
- 鄰人 今日の問題社 1943
- 明治文学の潮流 紀元社 1944.9
翻訳
[編集]- 幽霊の存在 ヰリヤム・エフ・バーレツト 新光社 1922(心霊問題叢書 第5巻)
- 小公子 フランシス・エリザ・ホジスン・バーネツト 誠文堂書店 1923
- 生と死 モーリス・メーテルリンク 新光社 1923 (心霊問題叢書 第2巻)
- 狐の紺太 バーケス 平凡社 1932 (世界家庭文学全集)
復刻
[編集]- 草と人 水野葉舟選集刊行会 1974
- 明治文学の潮流 日本図書センター 1983(明治大正文学回想集成)
- 沼の思ひ出 葉舟会 1984(水野葉舟資料 1)
- 三里塚散歩 葉舟会 1985(水野葉舟資料 2)
- 遠野へ 葉舟会 1987(水野葉舟資料 3)
- 下総開墾 葉舟会 1988(水野葉舟資料 4)
- 遠野物語の周辺 横山茂雄編 国書刊行会 2001
- 葉舟小品 佐藤浩美編 三恵社 2018
脚注
[編集]- ^ 金子光晴、他・編集『日本詩人全集・第三巻』創元文庫、1953年、241p頁。
- ^ a b c d e 水野勝興『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 学制期諸県に及んだ静岡藩小学校の影響樋口雄彦、国立歴史民俗博物館研究報告、第167集 2012年1月
- ^ (株)日本勧業銀行『日本勧業銀行四十年志』(1938.01)渋沢社史データペース
- ^ a b c d e 『忘れえぬ赤城: 水野葉舟、そして光太郎その後』佐藤浩美、三恵社, 2011、p167-170
- ^ 新収蔵品紹介損保ジャパン東郷青児美術館レポート40号、2013年3月 公益財団法人損保ジャパン美術財団
- ^ a b 成田ゆかりの人々 水野葉舟成田市
- ^ 荻野元太郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『忘れえぬ赤城: 水野葉舟、そして光太郎その後』佐藤浩美、三恵社, 2011、p82
- ^ 孤児となった末娘 水野葉舟(10)千葉日報、2010年9月16日
- ^ ランプの家の生活 水野葉舟(4)千葉日報、2010年6月17日
参考資料
[編集]- 水野葉舟『遠野物語の周辺』(国書刊行会)収録の横山茂雄による解題「怪談への位相」。
外部リンク
[編集]- 水野 葉舟:作家別作品リスト - 青空文庫
- 早稲田と文学(水野葉舟) - ウェイバックマシン(2008年2月13日アーカイブ分) - 早稲田大学
- 「闇」への眼、「闇」の造型 -水野葉舟からみた近代の「風景表象」 - 中島国彦、早稲田大学『国文学研究』149巻、2006-06-15
- 水野葉舟の歌碑/千葉県公式観光情報サイト-まるごとe! ちば-
- 葉舟作品展示博物館