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塩焼王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
氷上塩焼から転送)
 
氷上 塩焼
時代 奈良時代前期 - 中期
生誕 不詳
死没 天平宝字8年9月18日764年10月17日
改名 塩焼王(皇族時代) → 氷上 塩焼(臣籍降下後)
官位 従三位中納言
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 氷上真人
父母 父:新田部親王、母:不詳
兄弟 塩焼王道祖王長野王氷上陽侯忍坂女王石田女王
不破内親王聖武天皇皇女
志計志麻呂川継
特記
事項
氷上氏(氷上真人)の祖
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塩焼王(しおやきおう)は、日本奈良時代皇族。のち臣籍降下氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称した。天武天皇の孫で、一品新田部親王の子。

経歴

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天平5年(732年)二世王に対する蔭位により無位から従四位下に直叙される。天平12年(740年)正月に従四位上に昇叙されると、同年10月に聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉し、同年11月にはその功労により正四位下となって1年で二回目の昇叙に与るなど、聖武天皇の女婿として順調に昇進する。またこの間に中務卿に任じられている。

天平14年(742年)8月の紫香楽宮行幸では前次第司となり、再び聖武天皇の行幸に供奉する。しかし、同年10月に川辺東女を含んだ女嬬4人とともに平城獄に投獄された後、伊豆国配流された。その理由について、皇位継承問題に関わる政争に巻き込まれた、あるいは紫香楽宮への遷都へ反対して天皇の勘気を蒙った[1]などが推測されるが、明らかでない。天平17年(745年)に赦免されて帰京し、翌天平18年(746年)には本位(正四位下)に復している。

その後、聖武朝末から孝謙朝半ばにかけて10年以上に亘って『続日本紀』に登場せず、動静がはっきりしない。天平勝宝9歳(757年)3月に弟の道祖王皇太子廃され、皇嗣選定のための会議が開かれる。そこで、右大臣藤原豊成や中務卿・藤原永手らによって塩焼王は皇嗣に推されたが、かつて聖武天皇に無礼を責められたことがある(これが伊豆配流の原因を指すと考えられる)という理由により孝謙天皇本人に反対されて実現しなかった[2]。また、後年のことになるが、妻の不破内親王も異母姉の称徳天皇(孝謙天皇の復辟)より、かつて先朝(聖武天皇)の時代に親王の称号を剥奪されたことを非難されており[3]、父の聖武天皇から何らかの勘気を蒙っていた可能性が高く、このことも塩焼王の不利になったと思われる[4]

結局、皇太子には舎人親王の子である大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた。同年5月に正四位上に昇叙し、6月には大蔵卿に任じられた。また、同年7月に起きた橘奈良麻呂の乱では、謀反計画の中で新天皇候補の四王の一人に挙げられており関与を疑われたが、塩焼王自身は謀議の場に参加していなかったとして、不問に付されている[5]

のち、氷上真人姓を与えられて臣籍降下する。天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位に伴って従三位に叙せられ公卿に列す。姉・陽侯女王の夫で淳仁天皇を擁して権力を握っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図る、天平宝字3年(759年)には意見封事を天皇に行い、意見を採用されている[6]。天平宝字6年(763年)になると恵美押勝が子息を次々と参議として議政官に加える中で、塩焼王も急速に栄達して同年正月に参議、6月には中納言に至った。

しかし、天平宝字8年(764年)9月に押勝が孝謙上皇との権力争いの結果、武装叛乱に追い込まれる。押勝によって塩焼王は天皇に擁立されて「今帝」と称したが、押勝の敗走に伴い孝謙上皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一家とともに殺害された(藤原仲麻呂の乱)。

官歴

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続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 宇治谷[1992: 423]
  2. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳4月4日条
  3. ^ a b 『続日本紀』神護景雲3年5月25日条
  4. ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P136-137.)初版は1986年。
  5. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月3日条,同27日条
  6. ^ 『続日本紀』天平宝字3年6月22日条
  7. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月27日条
  8. ^ 『続日本紀』天応2年閏正月14日条。志計志麻呂と川継は同一人物であるという説もある。
  9. ^ 続日本紀天応2年(782年)閏正月14日条によれば、川継には不破とともに淡路国に配流された複数の姉妹がいたという。

参考文献

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