コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

永納山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
永納山城
愛媛県
永納山城跡のある永納山 手前山塊の中央右に山頂、中央左に南東部頂上。両峰間に城壁線が所在する。奥の山塊は世田山・笠松山。
永納山城跡のある永納山
手前山塊の中央右に山頂、中央左に南東部頂上。両峰間に城壁線が所在する。奥の山塊は世田山・笠松山。
城郭構造 古代山城神籠石系山城
築城年 不明
廃城年 不明
遺構 土塁・鍛冶関連遺構
指定文化財 国の史跡「永納山城跡」
位置 北緯33度58分40.30秒 東経133度3分21.25秒 / 北緯33.9778611度 東経133.0559028度 / 33.9778611; 133.0559028座標: 北緯33度58分40.30秒 東経133度3分21.25秒 / 北緯33.9778611度 東経133.0559028度 / 33.9778611; 133.0559028
テンプレートを表示
永納山城および関連史跡の位置

永納山城(えいのうさんじょう)は、伊予国桑村郡の永納山・医王山(現在の愛媛県西条市河原津・楠、今治市孫兵衛作(まごべえさく))[1] にあった日本古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。

概要

[編集]

愛媛県中部、高縄半島の東付け根において燧灘含む瀬戸内海を望む、独立山塊の永納山(標高132.4メートル[2])・医王山(標高約130メートル)上に築城された古代山城である[1][3]。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在一般的な山名を冠する城名は後世の命名による。1977年昭和52年)に発見されたのち、現在までに数次の発掘調査が実施されている。

城は永納山・医王山の周囲に城壁を巡らすことによって構築される。城壁は基本的に土塁とし、城域内では鍛冶関連遺構が認められているが、その他の城門・水門・内部施設は詳らかでない。出土遺物としては、鍛冶関連遺物のほか土器片がある。

城跡域は2005年平成17年)に国の史跡に指定された[3]。現在は西条市により環境整備が進められている。

歴史

[編集]

古代

[編集]
永納山山頂から来島海峡を望む
永納山山頂より石鎚山を望む

永納山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方近畿地方において古代山城の築城が見られており、永納山城もその1つに比定される。発掘調査では8世紀初頭-前半頃の土器片が検出され、少なくともその頃までの存続が認められる[1]

城域は古代には桑村郡に属し(津宮郷[4]または御井郷[5])、北方の今治平野は相の谷1号墳(伊予最大首長墓)・伊予国府推定地・伊予国分寺伊予国分尼寺・越智駅が立地する政治的中心地で[6]、南方の道前平野でも古代遺跡の分布が認められる[1]。古代豪族としては今治平野では越智氏、道前平野では凡直氏などの存在が知られ、これら在地豪族が築城に関わった可能性を指摘する説もある[6]

なお四国地方の古代山城としては、永納山城のほかに讃岐国屋嶋城香川県高松市)や城山城(香川県坂出市丸亀市)が知られる。

近代以降

[編集]

近代以降については次の通り。

  • 1961年昭和36年)、一部の専門家による列石の認知[7][8]
  • 1977年(昭和52年)、旧東予市の遺跡分布調査で列石の発見(記録上正式の発見。現地火災が発見のきっかけという[9][7][8]
  • 1977-1978年(昭和52-53年)、第1-2次発掘調査(旧東予市教育委員会、1980年に報告書刊行)。
  • 2002-2004年度(平成14-16年度)、史跡指定に向けた範囲確認発掘調査(旧東予市教育委員会のち西条市教育委員会、2005年に報告書刊行)[7][8]
  • 2005年(平成17年)7月14日、国の史跡に指定[3]
  • 2006-2011年度(平成18-23年度)、内部施設等の確認発掘調査(西条市教育委員会、2009年2012年に報告書刊行)[8]
  • 2007年(平成19年)7月26日、史跡範囲の追加指定[3]
  • 2015年度(平成27年度)以降、保存に向けた環境整備・発掘調査(西条市教育委員会)[10][11][2]
  • 2016年度(平成28年度)、愛媛県西条市で第6回古代山城サミットの開催[12][8]
  • 2017年(平成29年)2月9日、史跡範囲の追加指定[3]

遺構

[編集]
城壁線
手前左(南東部頂上)から右奥(永納山山頂)へと城壁が続く。
城壁
城壁は全周約2.5キロメートルを測る[13][3]。城域は東西約470メートル・南北約720メートルで[1][3]、古代山城では一般的な大きさになる[14]。城壁の構造は基本的には内托式[注 1]の土塁によるが、西部頂上付近などでは石積み、南-東部では自然の露出岩盤とする[1]。土塁は列石の上に版築によって構築される。列石の石材は花崗岩類(永納山中で採石か[9])で、各石は幅約0.3-1メートルを測る[1]。また石積みは3箇所で確認され、最大規模は西部頂上付近のもので、幅約20.7メートル・最大高さ約1.8メートルを測る[1]。石材は花崗岩類で、各石は幅0.4-1メートル[1]
鍛冶関連遺構
城域内で鍜冶鍛冶炉・炭置場・金床石などが認められる[1]。古代山城での検出は鬼ノ城に続く2例目になる[1]。時期を決める遺物が出土していないため、築城時の遺構か修城時の遺構かは明らかでない[1]

そのほかに谷部(城域北側の予讃線線路付近)で水門の存在が推定され、その水門推定地の横では推定城門遺構が認められているが、いずれも遺存状況が悪く詳らかでない[1][3]。また鍛冶関連遺構以外の内部施設は認められていない[1]。城域からの出土遺物としては、鍛冶関連遺物のほか、飛鳥時代奈良時代を主とする土器片が検出されている[1]

文化財

[編集]

国の史跡

[編集]
  • 永納山城跡
    2005年(平成17年)7月14日に国の史跡に指定[3]
    2007年(平成19年)7月26日・2017年(平成29年)2月9日に史跡範囲の追加指定(指定範囲面積は計406,427.54平方メートル[14][3]

現地情報

[編集]

所在地

交通アクセス

関連施設

  • 西条市立東予郷土館(西条市周布) - 永納山城跡の出土品等を保管・展示。

脚注

[編集]

注釈

  1. ^ 「内托式(外壁式)」は斜面にもたせかけて外側にのみ城壁を設ける形態を指し、これに対して「夾築式(両壁式)」は内・外の両側に城壁を設ける形態を指す(向井一雄 『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン(歴史文化ライブラリー440)』 吉川弘文館、2017年、pp. 21-22)。

出典

参考文献

[編集]

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(西条市教育委員会、2008年設置)
  • 永納山城跡パンフレット(西条市教育委員会)
  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 「永納山遺跡」『愛媛県の地名』平凡社日本歴史地名大系39〉、1980年。ISBN 4582490395 
    • 永納山城跡」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。

関連文献

[編集]

(記事執筆に使用していない関連文献)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]