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江崎照雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江崎 昭雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県岡崎市
生年月日 (1934-07-21) 1934年7月21日
没年月日 (2016-02-19) 2016年2月19日(81歳没)
身長
体重
185 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1957年
初出場 1957年
最終出場 1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1985)

江崎 照雄(えさき てるお、1934年7月21日 - 2016年2月19日[1])は、愛知県[2]岡崎市出身のプロ野球選手投手)・コーチ

来歴・人物

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中京商では2年次の1951年、エースとして春の選抜に出場。1回戦で長良高を完封するが、準々決勝(2回戦)で長崎西高に敗退[2]。チームメイトに遊撃手の鹿野鉱一(阪神)がいた。高校卒業後は1953年日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中に5度の優勝を経験。3年次の1955年には全日本大学野球選手権大会で決勝に進出するが、明大秋山登に完封され準優勝。4年次の1956年の同大会でも、同じく決勝で関大村山実に抑えられ準優勝に終わったが、同年秋季では最優秀投手に選出される。大学同期にエース島津四郎人見武雄、畠中良雄(阪急)がいた。

大学卒業後の1957年毎日オリオンズへ入団[2]。1年目の同年は新人ながら3勝を挙げるが、その後は低迷し、1959年オフに近鉄バファローへ移籍[2]。スライダーとカーブを武器に、1960年には48試合に登板し、自己最多となる6勝を挙げる。1962年オフには中日ドラゴンズへ移籍するが、を痛めて1963年限りで現役を引退[2]

引退後はスコアラーとなり、1985年には二軍総合投手コーチを務めた[2]

2016年2月19日に誤嚥性肺炎のため死去[1]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1957 毎日
大毎
28 4 2 1 0 3 1 -- -- .750 290 72.0 56 3 36 0 2 38 0 0 26 26 3.25 1.28
1958 5 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 55 14.0 9 2 3 0 1 11 0 0 8 7 4.50 0.86
1959 8 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 87 18.2 23 1 5 0 4 15 1 0 10 9 4.26 1.50
1960 近鉄 48 21 4 2 0 6 11 -- -- .353 777 186.0 167 15 66 8 1 127 6 0 88 72 3.48 1.25
1961 48 13 0 0 0 1 7 -- -- .125 509 116.0 134 21 25 4 3 60 6 0 84 77 5.97 1.37
1962 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 16 2.2 6 2 2 0 0 2 1 0 7 3 9.00 3.00
1963 中日 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 4 1.0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 1.00
通算:7年 140 42 6 3 0 10 21 -- -- .323 1738 410.1 396 44 137 12 11 253 14 0 223 194 4.25 1.30
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

背番号

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  • 15 (1957年 - 1959年)
  • 11 (1960年 - 1962年)
  • 38 (1963年)
  • 78 (1985年)

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 江崎昭雄さん81歳=元中日投手、チーフスコアラー”. 毎日新聞 (2016年2月19日). 2016年2月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、88ページ

外部リンク

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