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江馬次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
江馬次郎
時代 平安時代後期
生誕 不詳
死没 寿永2年(1183年)6月1日
別名 小次郎、小四郎、近末[1][2][3]
伊東祐親三女
小次郎[4]
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江馬 次郎(えま の じろう)は、平安時代後期の武士。読み本系の『平家物語』諸本や『曽我物語』などの物語類にのみ登場し、同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料には見えない。

呼称について

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苗字を江間江葉とするものもあるがいずれも「えま」と読む。延慶本『平家物語』や『源平盛衰記』では「エマノ小次郎」、『源平闘諍録』では「江葉の小次郎近末」、真名本『曽我物語』では「江馬次郎」、流布本『曽我物語』では「江間小四郎」と記される[1][2]

略歴

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伊豆国田方郡江馬庄(現静岡県伊豆の国市江間)の人物と考えられ、主に『曽我物語』にその名が見られる[2][3]永暦元年(1160年)に平治の乱で敗れて伊豆に流罪となっていた源頼朝は、当地の武士・伊東祐親三女(八重)と密通して千鶴御前という子を儲けたが[5]、祐親に露見するや千鶴は殺され、その生母も奪い返されてしまった。そして祐親がその娘を再嫁させた相手が江馬次郎であった[6][注 1]治承4年(1180年)に平家打倒のために挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで一度は敗れながらも再起し富士川の戦い平家方を撃退するなど関東平定を進めたが、江馬次郎は寿永2年(1183年)に平家と源義仲が戦った篠原の戦いで平家に従って討たれた[4]。一説にはその遺児は北条義時が引き取り、後年義時を烏帽子親として江馬小次郎と称したという[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『源平闘諍録』によれば祐親三女は江馬の元を出奔し、後年頼朝から呼び戻されて相馬師常に再嫁したとする[7]

出典

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参考文献

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  • 青木晃; 池田敬子; 北川忠彦 編『真名本 曾我物語』 1巻、平凡社東洋文庫〉、1987年。ISBN 4582804683 
  • 梶原正昭; 大津雄一; 野中哲照 編『曾我物語』小学館〈新編日本古典文学全集〉、2002年。ISBN 4096580538 
  • 「静岡県の地名」編集委員会 編「江馬庄」『日本歴史地名大系』 22巻《静岡県の地名》、平凡社、2000年。ISBN 4582490220 

登場作品

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鎌倉殿の13人 - (2022年)、演:芹沢興人