池田光重
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池田 光重(いけだ みつしげ、生年不明 - 寛永5年5月19日(1628年6月20日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。池田氏10代[1]。通称は弥右衛門[1]、別名は重信。官位は従五位下・備後守。池田長正の三男。兄に勝正と知正。子に三九郎、重長(他紋丸)。
略歴
[編集]元亀2年(1571年)8月28日の和田惟政との合戦で功があった[1]。
→「白井河原の戦い」も参照
文禄元年(1592年)、朝鮮の役にて名護屋城に兵50名で休戦まで在陣した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小山評定から、兄の知正と共に東軍に属した。子の三九郎は兄の養子となり、慶長9年(1604年)に知正が死去すると池田家の家督を継いだが、翌慶長10年(1605年)に17歳で早世してしまったため、光重が池田家の家督を継承することとなった。慶長14年(1609年)、大広寺に兄と長男の肖像画と釣鐘、10石の寺領を寄進した。また、次男の他紋丸(重長)の無事成長と武運長久を願い摂津国神田村(現池田市)の八坂神社本殿の再建などをしている。
慶長18年(1613年)、家臣[注 1]の関弥八郎が貸金横領を咎められた[注 2]。翌19年(1614年)、光重は連座する形で所領を没収され、駿河国法命寺に蟄居した。同年、大坂冬の陣では徳川方として有馬豊氏隊に属して参戦した[注 3]。戦後、重長と共に摂津池田氏再興を嘆願するため江戸に向かうも、志半ばで同地で没した。
子孫は江戸に留まり、重長、貞長、貞重、興貞、貞彦、貞夫、貞一、貞瑞と続き、貞瑞は明治7年(1874年)後嗣なく没するが、分家していた弟の東作が相続して現在に至る。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 東京帝国大学 1938, p. 783.
参考文献
[編集]- 東京帝国大学 編『大日本史料』 第十編之六、東京帝国大学文学部史料編纂所、1938年3月26日。NDLJP:12212117。(要登録)