荒木元清
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文4年(1535年)[1] |
死没 | 慶長15年5月23日(1610年7月13日) |
戒名 | 安志 |
官位 | 志摩守 |
主君 | 荒木村重→豊臣秀吉→秀次 |
氏族 | 摂津荒木氏 |
父母 | 父:荒木重元?、荒木村正?、荒木氏元? |
妻 | 室:田井源介長次娘 |
子 |
渡辺四郎、新之丞、石尾治一、元満、 平大夫 |
荒木 元清(あらき もときよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、馬術家。
生涯
[編集]荒木村重の親戚の家系に生まれ、初めは村重の家臣として、花隈城主となっていた[2](18,000石を領したという[3])。
天正6年(1578年)10月に村重が突如、織田信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)際、これに同調する。その後、劣勢となって有岡城、尼崎城(大物城)から逃れてきた村重・村次父子を花隈城に迎え入れたが、同8年(1580年)、花隈城に攻めてきた池田恒興らの攻勢に耐えきれず城は開城(花隈城の戦い)、脱出した元清は備後国鞆に逃れた。
大坪流の斎藤好玄(さいとう よしはる、斎藤安芸守)より弓術を伴わない馬術を学び[3]、それを基にして、自身の苗字を冠した荒木流(荒木流馬術)を新たに創始したとされる[3]。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が没し、羽柴秀吉が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して追放され、流罪となったが、のちに赦された。
慶長3年(1598年)の秀吉の死後は京都に隠遁し、同15年5月23日に死去。享年75[4][3]。
荒木流はその後、四男の元満(もとみつ、十左衛門)によって継承された。
系譜
[編集]- 父については荒木重元(しげもと)とも、荒木村正(むらまさ、美作守)[4]ともいわれており確定していない。美作守氏元[3]とするものもあるが、いずれの説をとっても系図上では荒木村重の従兄弟[5]に位置付けられている。
- 妻は田井源介長次(細川晴元の奉行人)の娘。荒木村重の妻・だしの母とは姉妹で、従ってだしは元清の(義理の)姪とされる。
- 長男の渡辺四郎(1559-1579[6]、渡辺勘大夫の婿養子)、次男の荒木新之丞(1561-1579)は、村重や元清が信長に謀反を起こした際、京都にて処刑された(有岡城の戦いを参照)[3]。
- 三男の石尾治一(石尾越後守、156?-1631)は、豊臣秀吉の命により改姓。黄母衣衆。秀吉・徳川家康に仕え、しばらく家系が続いている[4]。
- 四男は荒木元満(1565-1632)。諱は「元治」(もとはる)とするものもある[4]。元満は秀次事件の際、父と同様に流罪に処され、秀吉死後は黒田長政のもとに居候(寄食)していたが、大坂の陣に際して幕府に召され、徳川忠長に仕えた[3]。元満の子・荒木元政(もとまさ)も忠長に仕えたが、忠長が自害して亡くなると、松平直政のもとに一旦預けられた後、忠長の兄・徳川家光(江戸幕府第3代将軍)より許されて幕臣(旗本)となり、上総国武射郡に1,500石を賜った[3]。この元政の孫に荒木政羽がいる[3]。
- 五男の荒木平大夫(実名不詳)は内藤忠興に仕え、しばらく家系が続いている[4]。