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荒木元清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
荒木 元清
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文4年(1535年[1]
死没 慶長15年5月23日1610年7月13日
戒名 安志
官位 志摩守
主君 荒木村重豊臣秀吉秀次
氏族 摂津荒木氏
父母 父:荒木重元?、荒木村正?、荒木氏元
室:田井源介長次
渡辺四郎新之丞石尾治一元満
平大夫
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荒木 元清(あらき もときよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将馬術家。

生涯

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荒木村重の親戚の家系に生まれ、初めは村重の家臣として、花隈城主となっていた[2](18,000石を領したという[3])。

天正6年(1578年)10月に村重が突如、織田信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)際、これに同調する。その後、劣勢となって有岡城、尼崎城(大物城)から逃れてきた村重・村次父子を花隈城に迎え入れたが、同8年(1580年)、花隈城に攻めてきた池田恒興らの攻勢に耐えきれず城は開城(花隈城の戦い)、脱出した元清は備後国鞆に逃れた。

大坪流斎藤好玄(さいとう よしはる、斎藤安芸守)より弓術を伴わない馬術を学び[3]、それを基にして、自身の苗字を冠した荒木流(荒木流馬術)を新たに創始したとされる[3]

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が没し、羽柴秀吉が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して追放され、流罪となったが、のちに赦された。

慶長3年(1598年)の秀吉の死後は京都に隠遁し、同15年5月23日に死去。享年75[4][3]

荒木流はその後、四男の元満(もとみつ、十左衛門)によって継承された。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『朝日日本歴史人物事典』による。または、翌天文5年(1536年)とも(『日本人名大辞典』・『新訂寛政重修諸家譜第13』)。
  2. ^ 『常山記談』による。『中川文書』によると「大河原具雅」(おおがわら ともまさ)が城主で、その部下が荒木元清との記載もある。
  3. ^ a b c d e f g h i 寛政重修諸家譜』第十三 より。
  4. ^ a b c d e 系図纂要』より。
  5. ^ 元清の父が村重の父・義村の弟。
  6. ^ 天正7年(1579年)に数え21歳で処刑された旨が『信長公記』に見られる。

出典

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