荒木村次
表示
時代 | 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 新五郎(幼名)→村次 |
別名 | 村安 |
主君 | 豊臣秀吉 |
氏族 | 摂津荒木氏 |
父母 |
父:荒木村重、 母:北河原三河守娘[1][2][注釈 1] |
兄弟 | 村次、村基、岩佐又兵衛、荒木局ほか |
妻 |
正室:明智光秀娘[3] 側室・碓井氏娘[注釈 2] |
子 | 村直[注釈 3]、村常 |
生涯
[編集]摂津池田氏の家臣・荒木村重の長男として誕生。元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで茨木氏が滅亡すると、父から摂津国茨木城主に任命されたが、実質的な城主は荒木氏家臣の中川清秀で、天正5年(1577年)に清秀が正式に茨木城主となると、村次は尼崎城(大物城)に居を移した[4]。
天正6年(1578年)に父が織田信長に反逆した(有岡城の戦い)際、父に協力して有岡城を守っていた。村次は明智光秀の娘を正室に迎えていたが、この時に離別し[3][5]、後にこの女性は明智秀満と再婚をした[5]。茨木城を守備していた中川清秀が信長に帰順したため、荒木方は不利となる。天正7年(1579年)9月2日、有岡城より逃れてきた父・村重を自身の尼崎城へ迎え入れる。11月19日に信長より「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を取り付け、説得に来た荒木久左衛門らを村重は受け入れなかったため、村重・村次父子は荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利輝元を頼って逃亡した。
天正10年(1582年)の信長の死(本能寺の変)後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参戦したが、足を負傷して以後は戦場に出ることは無く、代わりに弟・村基が仕えた[1][6]。村次自身はその後も大坂に住み、秀吉には折に触れ謁した。秀吉死後は、徳川家康に召抱えられる最中に死去した[1][2]。
正確な没年は不詳だが、38歳で死去しており[1][2]、そこから逆算すると生年は永禄4年(1561年)頃と推定される。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 畠山浩一 「岩佐又兵衛と荒木一族」、東北大学大学院文学研究科美術史学講座 『美術史学』30号、2009年