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池田平作

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池田 平作(いけだ へいさく、1885年明治18年)4月12日[1] - 1935年昭和10年)9月21日[1])は、大正・昭和期の日本海軍軍人連合艦隊主計長、海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部長などを歴任した。最終階級は海軍主計少将

略歴

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静岡県出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ[2]。静岡中学時代は野球部に所属した[3][4]東京帝国大学法科大学卒業[注釈 1]

1911年7月、中主計任官、経理学校乙種学生。1912年3月、浪速乗員、7月、横須賀水雷団付、10月、第2駆逐隊付、12月、横須賀水雷団付。1913年4月、第1駆逐隊付、8月、主計長心得。12月、大主計、嵯峨主計長。1915年2月、佐世保経理部第1兼第2課員。1917年2月、第2特務艦隊司令部付。1918年9月、佐世保鎮守府付、佐世保経理部衣糧科員。1919年9月、主計大尉。1919年12月、主計少佐、経理学校高等科学生。1920年12月、経理学校教官兼監事。1922年3月、浅間主計長。1923年5月、燃料廠採炭部員。1923年12月、主計中佐。1924年5月、軍需局第1兼第2課員兼経理学校教官。1926年6月、造船造兵監督会計官(-1928年4月10日までイギリス出張)。

1928年10月、艦政本部出仕(総務部第2課)、12月、横須賀鎮守府付、主計大佐、横須賀海軍工廠会計部計算課長。1929年11月、横須賀鎮守府付、火薬廠会計部長、12月、第1艦隊連合艦隊主計長。1930年12月、軍需局第3課長兼技術会議員兼経理学校教官。1932年12月、経理局第2課長兼技術会議員。1934年11月、主計少将、横須賀軍需部長。1935年9月21日、死去(50歳)[5][出典無効]

脚注

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出典

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  1. ^ a b 池田平作」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B9%B3%E4%BD%9Cコトバンクより2024年8月22日閲覧 
  2. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 46頁。
  3. ^ 高校野球名門校シリーズ8 『静岡高校野球部 誇り高き文武両道 Since1896』84頁。
  4. ^ 『静中静高野球部史』451頁 昭和39年発行
  5. ^ 人名事典索引.The Naval Data Base. 池田平作

注釈

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  1. ^ 静岡中学19回同期に吉田勝太郎小栗一雄勝沼精蔵海野普吉ら。吉田とは共に野球部に所属し東京帝国大学法科大学で学んだ。

外部リンク

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