コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

海野普吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1921年

海野 普吉[注 1](うんの しんきち、1885年明治18年)8月29日 - 1968年昭和43年)7月6日[2])は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士

多くの思想裁判政治裁判の弁護をする[注 2]。戦後は社会運動も行う。戦後初の最高裁判事も受けず、親友の片山哲内閣法務大臣も受けず、一貫して在野の弁護士であることを貫く[注 3]

経歴

[編集]
第六高等学校時代1908年(明治41年)
兄と両親と共に普吉(右端)1914年(大正3年)頃

手がけた事件

[編集]

手がけた社会運動

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 本来の名は「晋吉」と書いて「しんきち」と読ませるものだったが、届を受理した役所の人間が戸籍に「普吉」と誤記し、不精な性格の父親もあえて役所に訂正を求めなかった[1]
  2. ^ 自身はマルクス主義とは一線を画する自由主義者であったが、マルクス主義者を弁護する事件も相当こなした。常に被告のことを配慮する「やさしさ」は参考文献の各書が指摘するところである。
  3. ^ 法務大臣就任をオーケーしなかったのは、弁護士登録がいったん途切れることへの懸念から、とも言われる。

出典

[編集]
  1. ^ 入江 (2011) 24頁
  2. ^ 海野普吉 - コトバンク
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 46頁
  4. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、358頁。ISBN 4-00-022512-X 
  5. ^ 「美濃部氏 後援団体の結成総会 政党の上に市民組織」『朝日新聞』1967年3月17日付朝刊、15頁

参考文献

[編集]
  • 海野普吉(潮見俊隆編)『ある弁護士の歩み』日本評論社、1968年
  • 「弁護士海野普吉」刊行委員会編『弁護士海野普吉』非売品、1972年
  • 潮見俊隆編著『日本の弁護士』日本評論社、1972年
  • 松岡英夫『人権擁護六十年――弁護士海野普吉』中公新書、1975年
  • 森長英三郎『日本弁護士列伝』社会思想社、1984年
  • 竹下甫『ある弁護士の置土産――海野普吉先生に学ぶ刑事弁護の精神』白順社、1996年
  • 入江耀子『思想は裁けるか――弁護士・海野普吉伝』筑摩選書、2011年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]