池田政恭
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永元年10月11日(1772年11月5日) |
死没 | 文政10年7月30日(1827年9月20日) |
改名 | 鉄次郎、鉄三郎、永次郎、初之進(幼名)、政房、政恭 |
戒名 | 大機院殿前城州刺使心源宗徹大居士 |
墓所 | 岡山県岡山市中区小橋町の国清寺 |
官位 | 従五位下・山城守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 備中生坂藩主 |
氏族 | 池田氏 |
父母 |
実父:池田治政、実母:瀬川 (公式)父:池田政弼、母:利佐姫(松平直純娘) |
兄弟 | 下記参照 |
妻 | 正室:籌姫(溝口直養六女) |
子 | 政範、長貞、政徳、松平乗羨正室 |
特記 事項 | 池田政弼の実子の政房と内密ですり代わり、表向きは同一人物とされた。 |
池田 政恭(いけだ まさゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。備中国生坂藩の(2人目の)5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。
略歴
[編集]公式には4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には岡山藩主池田治政が側室瀬川(柏原庸郷の娘)との間にもうけた庶長子である[1]。血統の上では、政弼と治政が共に池田綱政の曾孫という関係にある。正室は溝口直養の娘(梅岑院)。子は池田政範(長男)、池田長貞(次男)、池田政徳(三男)。官位は従五位下・山城守。幼名は鉄次郎、鉄三郎、永次郎、初之進。
池田家の史料である「池田氏系譜」によると、安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出された。安永4年(1775年)には三男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された[1]。
生坂池田家で安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去した際、既に嫡男として届出ずみであった政弼の次男(公式には四男)の永次郎(池田政房)が満1歳(数え2歳)で跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った[1]。安永8年(1779年)に通称を初之進、諱を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に11代将軍・徳川家斉に初御目見し、従五位下・山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する(生坂藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)。
文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去した。
系譜
[編集]実際の両親と兄弟姉妹
[編集]- 父:池田治政(1750年 - 1819年)
- 母:瀬川 - 柏原庸郷の娘
- 兄弟姉妹
届出上の両親と兄弟姉妹
[編集]妻子
[編集]脚注
[編集]関連項目
[編集]- 末期養子#藩主のすり替えの例
- 池田政広、池田政善 - 同じく岡山藩支藩の鴨方藩主。同様に政広の身代わりに政善が立てられたが、こちらは政広が存命のうちに行われた。政広の母、政善の公式上の母兼子(瑞松院)は、政恭の実の姉妹である。