池田輝録
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安2年11月11日(1649年12月14日) |
死没 | 正徳3年11月26日(1714年1月12日) |
改名 | 初名:熊沢政倫→池田輝録 |
別名 | 主税(通称) |
戒名 | 霊樹院殿古巌全崇大居士 |
官位 | 従五位下・丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番 |
主君 | 徳川家綱、綱吉、家宣、家継 |
藩 | 備中生坂藩主 |
氏族 | 熊沢氏、池田氏(輝録流) |
父母 |
父:池田光政、母:利清院 養父:熊沢蕃山 |
兄弟 | 奈阿、靖厳院、綱政、富幾、左阿、政言、六姫、七姫、輝録、房姫、小満 |
妻 |
正室:浄円院(若原一成の娘) 側室:広田氏、石原氏 |
子 |
輝廉ら 養子:政晴 |
池田 輝録(いけだ てるとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。通称は主税。備中生坂藩初代藩主。
経歴
[編集]岡山藩主・池田光政の三男で庶子として誕生した。初名は熊沢政倫。
最初は岡山藩の重臣であった熊沢蕃山の養子となり、3000石を領した。後に池田姓に復し、寛文12年(1672年)に父・光政が隠居して兄・綱政が家督を継ぐと、綱政から1万5000石を分与されて、支藩である生坂藩を立藩した。
藩政においては名君で有名だった父に劣らず、文武両道の名君として家臣を大切にし、民政に尽くしたと高く評価されている。一方、生坂藩の藩庁が置かれた東雲院の記録によると、輝録が儒教を擁護したため、生坂の寺の住職、神社の神主らの多くが迫害を受けて、同地を出て行かざるを得なくなった。そして東雲院の住職は迫害に耐え、3年後に許されたと云われる。
元禄15年(1702年)から正徳3年(1713年)7月まで奏者番を勤め、同年11月26日に65歳で死去した。法名は霊樹院殿古巌全崇大居士。男子はすべて早世したので、養嗣子の政晴(綱政の孫)が跡を継いだ。
系譜
[編集]- 父:池田光政(1609年 - 1682年)
- 母:利清院 - 側室、和田伝右衛門の娘
- 養父:熊沢蕃山(1619年 - 1691年)
- 正室:浄円院 - 若原一成の娘
- 側室:広田氏
- 室:石原氏
- 次男:池田輝廉(1687年 - 1706年) - 通仙院
- 養子