池田春野
表示
時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
---|---|
生誕 | 天平宝字元年(757年) |
死没 | 承和5年3月8日(838年4月5日) |
官位 | 従四位下掃部頭 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 池田朝臣 |
池田 春野(いけだ の はるの)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。姓は朝臣。官位は従四位下・掃部頭。
経歴
[編集]延暦10年(791年)始めて官職に就き内舎人に補せられる。左衛門少・大尉を経て、延暦19年(800年)従五位下・内蔵助兼丹波守に叙任される。大同元年(806年)平城天皇の即位に伴い従五位上に叙せられ、平城朝では中務少輔・弾正少弼を歴任する。
嵯峨朝では大蔵大輔・遠江守・越中守・宮内大輔を務め、弘仁3年(812年)正五位下に昇叙される。淳和朝では図書頭・掃部頭を歴任し、天長4年(827年)正五位上に叙せられ、天長6年(829年)従四位下に至った。
仁明朝の承和5年(838年)3月8日卒去。享年82。最終官位は散位従四位下。
人物
[編集]故事についてわかりやすく述べることができ、その内のいくつかは採用すべきものもあった。天長10年(833年)冬の大嘗会において、仁明天皇が禊祓をしようとして賀茂川に行幸した際、春野は掃部頭として行幸の行列に加わった。しかし、諸大夫が着用している装束の裾が地面を引きずっているのを見て、大笑いして「裾が地面を引きずるのは通常の形式で、神事の際に相応しい古体のやり方ではない」と言い、自らの着用している装束を指して古体の形式であるとした。その裾は地面から高さがあり、装束の下に着ている袴の裾が見えるようになっていた。諸大夫は皆驚いて、「古体の着用方法は唐と同じであり、後代はこれに倣うべきである」と言ったという。春野の衣冠の着用方法は古風であり、身長も6尺(約180cm)以上で、人々が集まる中で立つと人目を引いた。白髪を蓄え、まさに国家の元老といった風体であった[1]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 延暦10年(791年) 日付不詳:内舎人
- 延暦14年(795年) 日付不詳:左衛門少尉
- 時期不詳:左衛門大尉
- 延暦19年(800年) 日付不詳:従五位下
- 時期不詳:内蔵助兼丹波守
- 延暦25年(806年) 3月18日:御装束司(桓武天皇葬儀)。4月13日:従五位上
- 時期不詳:中務少輔。弾正少弼
- 大同5年(810年) 9月16日:大蔵大輔
- 弘仁3年(812年) 正月7日:正五位下
- 時期不詳:遠江守。越中守。宮内大輔
- 天長3年(826年) 日付不詳:図書頭
- 天長4年(827年) 正月21日:正五位上。日付不詳:掃部頭
- 天長6年(829年) 正月7日:従四位下
- 承和5年(838年) 3月8日:卒去(散位従四位下)