池田重政
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長8年(1603年) |
死没 | 慶安4年6月20日(1651年8月6日) |
改名 | 源六(幼名)、重政 |
戒名 | 本住院殿涼岩周清大居士 |
墓所 | 兵庫県揖保郡太子町鵤の斑鳩寺 |
官位 | 従五位下内蔵助 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 播磨新宮藩主 |
氏族 | 池田氏(重利流) |
父母 | 父:池田重利、母:山口宗永の娘 |
兄弟 | 重政、榎本某室 |
妻 | 正室:小堀政一の娘 |
子 |
源六、薫彰、公彰、西尾盛教室 坪内定長正室、布施官兵衛室 養女:藤枝方孝室 |
池田 重政(いけだ しげまさ)は、江戸時代前期の大名。播磨新宮藩2代藩主。下間系池田家2代。
生涯
[編集]慶長8年(1603年)、初代藩主・池田重利の長男として生まれる[1][2]。元和元年(1615年)に江戸幕府2代将軍徳川秀忠に拝謁している[3]。
寛永8年(1631年)、父の死去により跡を継ぐ。藩政の確立に尽力し、城下町を整備して藩庁・家老屋敷・侍屋敷を築造、揖保川のほとりに新宮八幡神社を建てた(寛永20年(1643年)に上棟)[1][2]。特に慶安3年(1650年)に家臣に命じて作らせた「播磨国絵図」は、当時の播磨国内を知る上で重要な文化財となっている[1]。
慶安4年(1651年)6月20日、江戸で死去した。享年49。長男の源六は早世したため、跡を次男の薫彰が継いだ[1][3][4]。