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沙宅孫登

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さたく そんとう

沙宅 孫登
生誕 百済
職業 達率
活動期間 661年? - ?
時代 飛鳥時代後期
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沙宅 孫登(さたく そんとう、生没年不詳)は、百済官吏官位達率

記録

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671年天智天皇10年11月)に、郭務悰らとともに来している[1]

この時の構成員は、郭務悰ら600人のほかに、孫登ら1,400人からなり、後者は前年からの新羅間の抗争の避難民であるとも推定されてきたが、その中には、道久筑紫薩夜麻韓嶋裟婆布師磐(あるいは土師富杼氷老弓削元実児)らといった、白村江の戦いなど百済復興戦争で捕虜となった倭人も含まれていたとされ、捕虜返還と交換に唐への軍事的協力を得ることが主目的であった可能性もある。

当時の近江朝廷は、同年12月の天智天皇の崩御などの混乱があり、十分な対応ができなかったものと見られる。翌672年天武天皇元年3月)に、阿曇稲敷筑紫国に派遣し、天智天皇の喪を公表している[2]

筑紫薩夜麻らが無事倭国に帰還できたことは、後の持統天皇大伴部博麻に告げた言葉で分かるが[3]、沙宅孫登らのその後の動向については不明である。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条
  2. ^ 『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年3月18日条
  3. ^ 『日本書紀』巻第三十、持統天皇4年10月22日条

参考文献

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関連項目

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