澤木興道
澤木興道 | |
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1880年6月16日 - 1965年12月21日 | |
座禅する澤木興道(1920年) | |
生地 | 三重県津市 |
没地 | 京都市安泰寺 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺院 | 安泰寺 |
師 | 沢田興法、沢田禅興 |
弟子 | 内山興正 |
著作 | 澤木興道全集 |
澤木 興道(さわき こうどう、道号:祖門、1880年6月16日 - 1965年12月21日)は、明治から昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である。定住する寺を持たなかったことから、「宿なし興道」と呼ばれる。
生涯
[編集]出生から沢木家の養子になるまで
[編集]1880年(明治13年)に三重県津市新東町に父・多田惣太郎、母・しげの四男として生まれた。幼名を多田才吉という。多田家は家業として、人力車の部品の金具を製造販売していた。その後4歳で母しげを病で、1887年(明治20年)2月には、7歳で父の惣太郎を亡くして一家離散。津市矢下の父方の叔母である「ひいの」方に預けられた。しかし、その8月には叔父(ひいのの夫)急逝。一身田(地名)の提灯屋、沢木文吉・ひさの養子となる。
永平寺への家出から出家得度まで
[編集]1888年(明治21年)、賭博開帳の折、見張りをさせられる。遊里の2階で急死した男を見て無常を痛感する。1895年(明治28年)秋、大阪の友達のところへ夜逃げするも、すぐに連れ戻される。1896年(明治29年)6月10日、2回目の家出をし、永平寺に向かう。11月、福井県坂井郡竜雲寺長昌庵に寄寓。1897年(明治30年)正月、永平寺を出発。熊本県天草郡楠浦の宗心寺に向かい、同寺の小僧となる。そして12月8日、宗心寺沢田輿法和尚に就いて出家得度、「興道」の法名をさずかる。
笛岡凌雲方丈から日露戦出征、沢田禅興和尚
[編集]1899年(明治32年)春、遍参の志を抱き宗心寺を無断で出る。兵庫県氷上郡、圓通寺に掛錫。但馬浜坂町、竜雲寺の戒会で初めて笛岡凌芸方丈に出会う。翌1900年(明治33年)、笛岡凌雲方丈に随身。そして興道一人だけのために『学道用心集』『永平清規』などの講義をしたという。しかし12月には、名古屋の歩兵三十三聯陳に入営する。1903年(明治36年)12月に満期除隊するが、翌1904年(明治37年)3月に日露戦争へ出征する。8月に重傷を負って11月に傷病兵として帰郷するも、奉天会戦のために再出征して1906年(明治39年)1月にようやく帰国する。8月、宗心寺沢田禅興和尚に就いて伝法嗣法。秋、真宗高田派専門学校に入学。
法隆寺勧学院から大徹堂まで
[編集]1908年(明治41年)12月、法隆寺勧学院に入り、佐伯定胤に唯識を学んだ。これより各地の道場を転々とし、「移動僧堂」「宿無し興道」と称された。1912年(明治45年)春、初めて永平寺眼蔵会に上山。そして12月には法隆寺勧学院を去って松阪・養泉寺僧堂単頭に赴任。翌1913年(大正2年)5月、奈良県吉野郡下北山村正法寺にて丘宗潭に初相見。1914年(大正3年)春、静岡・安養寺結制にて丘老師の西侍をつとめる。そして8月、養泉寺を去る。初秋、常福寺に入り、坐禅に明け暮れる。1916年(大正5年)5月、丘宗潭の命で熊本・大慈寺僧堂講師となる。そして旧制第五高等学校生徒にも坐禅を指導する。1921年(大正10年)8月17日、丘宗潭が遷化したので、翌1922年(大正11年)春、大慈寺を去って熊本市楠木町に借家を借り、それを「大徹堂」と名づけた。さらに翌年には熊本駅裏の万円山に移り、請われるままに参禅会に出かける。
駒澤大学教授・總持寺後堂、安泰寺での遷化
[編集]1935年(昭和10年)4月、駒澤大学教授に就任。12月には總持寺後堂に就任。鎌田茂雄や酒井得元を始めとする学生の坐禅指導を行い、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。1940年(昭和15年)10月、栃木県下都賀郡富山村の大中寺に天暁禅苑を開単する。1941年5月、中国東北部(満洲)巡錫。6月、総持寺後堂を退任。翌年5月、再び中国東北部に再巡錫。1943年(昭和18年)、東京都渋谷区千駄谷町に至誠寮を開く。翌年3月、至誠寮は戦時強制疎開によりて撤去されたため、渋谷区大和田町の丸山鶴吉宅に移転。1946年(昭和21年)4月、大桐院(静岡県森町)専門僧堂堂長。妙説庵(京都市)尼僧堂堂長。1949年6月、東京都港区芝三田松坂町、藤田次郎宅に移転。同宅にて参禅道場を開く。8月、京都市・安泰寺に紫竹林参禅道場開設。坐禅の指導に当たり、安泰寺では弟子の内山興正と共に後進の指導に当たった。1963年(昭和38年)3月、駒澤大学教授を辞任、7月は発病のため京都・安泰寺に引退・移動叢林終わる。
1965年12月21日午前1時50分、安泰寺にて遷化。遺体は京都大学解別室へ献体[1]。
その他
[編集]その思想、指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある曹洞禅センターにも受け継がれている。
駒澤大学の禅文化博物館には禅堂より移転した澤木興道の木像が、弟子の弟子丸泰仙の木像と共に安置されているほか、大学図書館には蔵書が澤木文庫として保管されている。
弟子
[編集]著作・講演
[編集]- 『永平仮名清規』(万日山人、1933年)
- 『参禅会要文抄』(万日山人、1934年)
- 『禅談』(大法輪閣、1938年/ちくま文庫、2018年)
- 『坐禅の仕方と心得』(佐々木書院、1939年/大法輪閣、2017年)
- 『証道歌を語る』(大法輪閣、1940年)
- 『生活即禅』(山喜房仏書林、1940年)
- 『観音経提唱』(東晃社、1944年)
- 『宇宙一ぱいの自己』(大法輪閣、1950年)
- 『人間最後にもとむるもの』(東洋文化協会、1951年)
- 『禅とは何か』(誠信書房、1962年)
- 『道元禅の神髄』(誠信書房、1963年)
- 『禅に生きる 沢木興道』(酒井得元著、誠信書房、1956年)
- 『沢木興道聞き書き ある禅者の生涯』(酒井得元著、講談社学術文庫、1984年)
- 『禅に聞け 沢木興道老師の言葉』(櫛谷宗則編、大法輪閣、1986年、新版2015年)
- 『禅を語る 沢木興道講演集』(成田英道編、大法輪閣、1998年)
- 『沢木興道生きる力としてのZen』(櫛谷宗則編、大法輪閣、2003年)
- 『澤木興道老師のことば』(櫛谷宗則編、大法輪閣、2007年)
全集
[編集]- 『澤木興道全集』(全18巻・別巻1、大法輪閣、1966年、オンデマンド版2013年)
脚注
[編集]- ^ 『禅画報 捨身の道者・澤木興道 21号』千眞工芸発行 1992年9月 沢木興道老師 略年歴 表紙裏p
外部リンク
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