河辺博長
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時代 | 幕末 - 昭和時代 |
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生誕 | 慶応元年3月21日(1865年4月16日)[1] |
死没 | 昭和5年(1930年)4月4日[1][2] |
改名 | 昔丸(幼名)[3] |
墓所 | 青山霊園 |
官位 | 正三位勲四等 |
主君 | 明治天皇→大正天皇→昭和天皇 |
氏族 | 万里小路家→河辺家 |
父母 |
父:万里小路博房 養母:河辺英子 |
妻 |
起志枝(先妻) 寿々(後妻) |
子 |
正長、辰雄、保子 三郎、治雄、博雄、文子、秀雄 |
河辺 博長(河邉、かわべ ひろなが)は、明治から昭和期の政治家、神官、華族。位階および勲等は正三位・勲四等。貴族院男爵議員。
経歴
[編集]山城国京都で右中弁・万里小路博房の四男として生まれる[1][4][5]。1884年(明治17年)5月23日、伊勢神宮大宮司の家系である河辺家当主・河辺英子(ふさこ、故河辺長量夫人、本多忠升十女)の養子となり家督を継承[1][4]。同年7月、博長と改名し[3][5]、同月8日、男爵を叙爵した[1][4][6]。
1884年、宮内省十七等出仕となる[2]。以後、明宮(大正天皇)祗候、青山御所祗候、府社亀戸神社社司などを務めた[2][4][5]。1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[7][8]、1911年(明治44年)7月9日まで1期在任した[2]。
親族
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 筒井住蓮 編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所 編『人事興信録』(8版)、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院 編『議会制度百年史:貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』 上、吉川弘文館、1996年。
- 杉謙二 編『華族畫報』《上》吉川弘文館、2011年。 - 華族画報社大正2年刊の複製
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 河辺家初代 1884年 - 1930年 |
次代 河辺三郎 |