河辺家 (大中臣氏)
河邉家 | |
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三つ橘 | |
本姓 | 大中臣氏一門 |
家祖 | 中臣御食子 |
種別 |
神別 社家 華族(男爵) |
著名な人物 |
河辺精長 河辺博長 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
河辺家(かわべけ)は、伊勢神宮の大宮司を世襲した大中臣氏一門の社家、男爵。
概要
[編集]中臣氏一門祖中臣御食子の子、中臣垂目の系統に始まる流派のうち、鎌倉時代に大中臣永智の子通能が伊勢河辺に居住して「河辺」を名乗ったことに始まる[1][2][3]。室町時代からは、代々神宮大宮司を世襲した[4]。家業は神祇道、通字は「長」。
江戸時代になり、承応2年(1653年)、神宮祭主の藤波友忠が勅勘を蒙って祭主を免ぜられると、同年9月10日、後継祭主に河辺定長が就いた。これに伴って同日、河辺精長が大宮司となり[5]、以後大宮司の世襲は精長の系統に移った。
祭主職をめぐって
[編集]嗣子なき定長が病気になり、大宮司の職を執行できなくなると、定長は二条家諸大夫北小路俊臣の次男兼長を養子に取り、改姓させる[6]。しかし、これに大宮司精長が「本来祭主職は世襲制ではないこと、世襲のため異姓の者を養子にすることは神宮の神慮に適わないこと」を指摘して異を唱えた[7]。この訴えは取り上げられることなかったが、それでも精長は訴え続けた[8]。そうしているうちに、定長は病状が悪化し、ついに明暦2年(1656年)11月6日死去してしまった[8]。定長死去後も、後継祭主は定められなかった。兼長も自身の正統性を訴え出るがなかなか決着せず、父の勅勘に連座して近江に流されていた藤波景忠を任じることになった[9]。
祭主職の条件として、大中臣氏であること、そしてそのうち二門の者であることがあった。他門の者を任じれば不吉なことが起こるとも言われたが、この時期には後者が重視されず、友忠の後継として定長を任じたが、結局定長没後三年も後継祭主が定められない事態になり、朝廷もこの条件を改めて重視したのである[10]。これに、精長は自身の子である故長を後継祭主に推薦し、改めて反発した[11]。しかし、朝廷は既に決定した事項としてこれを退け、祭主は藤波家の世襲となった[12]。河辺家の者が以降祭主となることは無く、大宮司の世襲に落ち着いた。
藤波家との関係
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実父・実子を優先した。太字が河辺家の人物。 |
- 詳しくは右の「藤波・河辺関係系図」を参照。
前述のように、藤波家の者が祭主に再任することに関して著しく反発した河辺家だったが、精長の次男長春が早くに死去し、その跡を継いだ精長三男の房長は嗣子に恵まれず、祭主藤波景忠の子を二人も養子に取った[13]。その二人も早世し、大中臣一族のうちから春日社神主の中西時資の子千長を養子に取った[14]。しかし彼も早くに亡くなり、景忠の孫にあたる長矩を千長の娘と娶せてからは、この長矩の系統が河辺家を継いでいく。血統で見れば、藤波家に移ったことになる。
長祥には子が無く、藤波寛忠の子で澤久量の養子となった澤量行、その子である長福が養子に入る。長福の跡は長祥の弟の都盛が継いだが、彼も嗣子なく、同じく寛忠の子で三室戸能光の養子となった三室戸陳光の、その子である長量、教長が相次いで養子に入った。教長が隠居すると、長量の妻であった英子が家督を継承し当主となる[1]。英子の跡は、万里小路正房に嫁いだ寛忠の娘・義子の実の孫博長が継承する。ここで血統は万里小路家に移る[注 1]が、女系を介すると藤波家にも至ることができる。
男爵家として
[編集]明治維新を迎え、制度改革によって神官世襲が廃止され、大宮司もその一つであった。その後、当主教長は明治5年(1872年)5月19日に華族に列せられ、明治11年(1878年)10月5日に隠居した。同日家督を継いだのは先代にして実の兄の、その妻である英子であった[1]。
女戸主となった英子の跡を継いだのは、前述の通り博長だった。明治17年(1884年)5月23日、博長が家督を継承し[1]、同年7月8日、華族令の施行と共に男爵に叙された[15]。神宮に奉職するわけではなかったが神祇道の家としての名残はあり、博長は亀戸神社の社司を務め、子の三郎も賀茂御祖神社宮司や安房神社の責任役員を務めた[1]。
歴代当主
[編集]河辺精長家
[編集]河辺男爵家
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 英子と博長のこの養子縁組により、血統の上では大中臣一門に戻ったことになる。すなわち、父方の実系を辿ると、「1.中臣御食子─2.藤原鎌足─3.不比等─4.房前─5.真楯─6.内麿─7.冬嗣─8.長良─9.基経─10.忠平─11.師輔─12.兼家─13.道長─14.頼通─15.師実─16.難波忠教─17.頼輔─18.頼経─19.飛鳥井雅経─20.教定─21.基長─22.雅孝─23.雅家─24.雅縁─25.雅世─26.親親─27.雅俊─28.雅綱─29.覚澄─30.西洞院時慶─31.平松時庸─32.時方─33.時春─34.時行─35.万里小路文房─36.建房─37.正房─38.博房─39.河辺博長」とつながる。
出典
[編集]- ^ a b c d e 霞会館 1996, pp. 468–469.
- ^ 神宮司庁 1929, p. 572.
- ^ 太田亮 1943, p. 1670.
- ^ 新田均 1993, p. 67.
- ^ 神宮司庁 1929, p. 637.
- ^ 平井誠二 2000, pp. 189–190.
- ^ 平井誠二 2000, p. 189.
- ^ a b 平井誠二 2000, p. 190.
- ^ 平井誠二 2000, p. 191.
- ^ 平井誠二 2000, p. 192.
- ^ 平井誠二 2000, p. 193.
- ^ 平井誠二 2000, p. 195.
- ^ 平井誠二 2000, p. 196.
- ^ 平井誠二 2000, pp. 196–197.
- ^ 『官報』308号、1884年7月9日, p. 9.
出典サイト
[編集]参考文献
[編集]- 大蔵省印刷局『官報』 308号、1884年7月9日。doi:10.11501/2943512。
- 神宮司庁『神宮要綱』神宮皇學館館友会、1929年。
- 太田亮『姓氏家系大辞典』 2巻、国民社、1943年。
- 新田均「明治時代の伊勢神宮」『皇学館論叢』第27巻第2号、皇学館大学人文学会、1993年4月、61-76頁、ISSN 02870347、NAID 120006881955。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。
- 平井誠二 著「近世における祭主職の継承」、國學院大學日本文化研究所 編『大中臣祭主藤波家の研究』続群書類従完成会、2000年、183-204頁。