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藤波教忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤波 教忠
藤波教忠
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政6年8月19日1823年9月23日
死没 明治24年(1891年1月31日
墓所 青山霊園
官位 従二位非参議
正二位
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 藤波家
父母 父:藤波光忠、母:吉野はな
高倉愛子(高倉永雅の娘)
実子:重忠ほか
養子:言忠
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藤波 教忠(ふじなみ のりただ)は、日本公卿華族。世襲制最後の神宮祭主

生涯

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誕生から公卿へ

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神宮祭主藤波光忠の子として、文政6年(1823年)に生まれる。

文政10年(1827年)、5歳で叙爵。天保2年(1831年)、9歳で元服、昇殿を許され、同日に従五位上神祇権大副となった。天保10年(1839年)には17歳で父から祭主職を継承した。弘化3年(1846年)、従三位に叙され、公卿に列する。翌年には推叙により正三位へ昇叙した。嘉永元年11月25日1848年12月20日)、寿詞を奏上した賞で直衣を許される。翌年には第54回神宮式年遷宮を斎行した。

安政2年11月23日1855年12月31日)、孝明天皇の新造内裏への遷幸に供奉した。

幕末から維新へ

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安政5年3月12日1858年4月25日)、日米修好通商条約締結の条約案について、その内容の撤回を要求する書状に連署した(廷臣八十八卿列参事件[1]

文久2年5月11日1862年6月8日)には、非蔵人の行う国事書類の筆写を担う国事御用書記の一人に任じられた[2]。しかし、同年12月9日1863年1月28日)に国事御用掛が設置されたことにより解任される。元治元年6月25日1864年7月28日)には、関白二条斉敬に対して、横浜鎖港実施を幕府へ要求する一条家門流三十八卿建議に参加している[3]

こうした動きもむなしく、明治維新を迎えた。

罷免から隠居へ

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維新後も神宮祭主であり続け、明治2年(1869年)の第55回神宮式年遷宮を斎行した教忠だったが、維新政府の改革のメスがついに入ってしまう。神宮の神官世襲廃止の布石として、明治4年1月28日1871年3月18日)、祭主を罷免されてしまった[4]。神宮に対しては同年5月14日7月1日)に神官世襲廃止が通知された[4]

明治9年(1876年12月25日、家督を婿養子に迎えた藤波言忠に譲って隠居する[5]

明治19年(1886年)には五辻高仲山井氏暉と共に特旨を以て同日昇叙、教忠と高仲は正二位に、山井は従二位に叙された[注 1]

明治24年(1891年)、かねてからの病により、69歳で薨去した[注 2]。墓所は青山霊園 1-ロ12-23。

官歴

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公卿以前
公卿以後
維新以後

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『官報』第777号「叙任」1886年2月6日。
  2. ^ 『朝日新聞』明治24年2月3日付朝刊。「華族逝去」
  3. ^ 『公卿補任』仁孝天皇天保十五年条。父・光忠が同月22日に大副を辞任したことによる。
  4. ^ 『公卿補任』仁孝天皇弘化三年条。父・光忠が薨去したことによる。
  5. ^ 『公卿補任』孝明天皇文久元年条。神祇大副のみ「如元」であるから、このとき権守を辞したか。以降記述は見られなくなる。

出典

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  1. ^ 刑部芳則 2018, p. 41.
  2. ^ 刑部芳則 2018, p. 91.
  3. ^ 刑部芳則 2018, p. 164.
  4. ^ a b 新田均 1993, p. 68.
  5. ^ 霞会館 1996, p. 452.

参考文献

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  • 『公卿補任』第五篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
  • 新田均「明治時代の伊勢神宮」『皇学館論叢』第27巻第2号、皇学館大学人文学会、1993年4月、61-76頁、ISSN 02870347NAID 120006881955 
  • 霞会館平成新修旧華族家系大成』 下巻、吉川弘文館、1996年。 
  • 刑部芳則『公家たちの幕末維新』中央公論新社、2018年。