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大中臣輔親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大中臣 輔親
時代 平安時代中期
生誕 天暦8年(954年
死没 長暦2年6月2日1038年7月6日
別名 号:四条または岩出
官位 正三位神祇伯
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇後朱雀天皇
氏族 大中臣氏
父母 父:大中臣能宣、母:藤原清兼娘
兄弟 輔親、輔長、輔□、宣理、源兼澄
蔵命婦
輔隆、伊勢大輔、大中臣守孝室
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大中臣 輔親(おおなかとみ の すけちか)は、平安時代中期の公卿歌人神祇大副大中臣能宣の長男。官位正三位祭主神祇伯中古三十六歌仙の一人。四条または岩出を号す。

経歴

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一条朝初頭の寛和2年(986年文章生試に及第し、勘解由次官皇太后宮権少進を経て、正暦2年(991年従五位下に叙せられる。

長徳2年(996年美作介に任ぜられると、長保2年(1000年)正月まで4年の任期を勤め上げる。翌長保3年(1001年伊勢神宮祭主・神祇権大副と神職に遷った。その後も、寛弘5年(1008年)ごろ神祇権大副、と神職を歴任する。この間、寛弘4年(1007年)従五位上次いで正五位下、寛弘7年(1010年従四位下と昇進。さらに寛弘9年(1012年三条天皇大嘗祭で従四位上、長和5年(1016年後一条天皇の大嘗祭で正四位下と祭主の労により叙位を受けている。

寛仁3年(1019年)ごろ神祇伯に任ぜられ、長元7年(1034年)には18年ぶりの昇叙により従三位に叙せられ、公卿に列した。長元9年(1036年後朱雀天皇の大嘗祭における祭主の労により正三位に至る。

長暦2年(1038年)6月2日薨去享年85。

人物

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大中臣氏重代の歌人で、三条天皇後一条天皇後朱雀天皇の三代に亘って大嘗会和歌を詠進したほか、屏風歌の制作や歌合でも活躍した。勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に31首入集[1]。家集に『輔親卿集』がある。

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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妻の蔵命婦藤原道長の五男・藤原教通の乳母であり、輔親も同様に乳母父として仕えた。その縁で、娘の伊勢大輔が藤原彰子に仕えることになったと思われる。ただし、蔵命婦が伊勢大輔の母親であるかどうかは不明。

脚注

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  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ a b 『中古歌仙三十六人伝』
  3. ^ 『大間書』
  4. ^ 『権記』
  5. ^ 『御産部類記』
  6. ^ 『小右記』

参考文献

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