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河辺百枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河辺百枝
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
官位 小錦上民部卿
主君 天智天皇弘文天皇天武天皇
氏族 河辺
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河辺 百枝(かわべ の ももえ)は、飛鳥時代豪族冠位小錦上民部卿

出自

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河辺氏(川辺氏)の名前は、河内国石川郡河野辺に由来する。この地は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に当たる。『新撰姓氏録』右京皇別上には、「武内宿禰四世孫宗我宿禰之後也」と掲載されている。同族に、『日本書紀』巻第十九の欽明天皇23年7月条(562年)に名前のあがっている河辺臣瓊缶(かわべ の おみ にえ)、巻第二十二の推古天皇31年是歳条(623年)で征新羅副将軍の1人とされた河辺臣禰受(かわべ の おみ ねず)、巻第二十五・二十六の、孝徳天皇白雉5年2月(623年)に遣唐大使に選ばれ、翌年の斉明天皇元年8月1日に帰朝した河辺臣麻呂(かわべ の おみ まろ)などが存在する。主として対外関係の方面で活躍した一族である。

経歴

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『書紀』巻第二十六によると、斉明天皇7年(661年)7月24日に天皇が崩御したのち、皇太子の葛城中大兄皇子(のちの天智天皇)は素服(あさものみそ=麻衣の御服)を着て、「称制」を行い、即位しない状態で政務をとった。筑前国の朝倉宮(あさくらのみや、現在の福岡県朝倉市山田)から長津宮(ながつのみや、現在の福岡市南区三宅)へ遷幸してから、海外への軍政をとった[1]。この地は那津(博多)に近く、水軍動員の利があった。

8月になってから、軍の編成を行い、百済救援軍を組織した。

  1. 前軍の将軍 - 大花下(だいけげ)の阿曇比羅夫連(あづみ の ひらぶふ の むらじ)、そして小花下(しょうけげ)の河辺百枝臣(かわべ の ももえ の おみ).
  2. 後軍の将軍 - 大花下の阿倍引田比羅夫臣(あべのひけた の ひらふ の おみ)、大山上(だいせんじょう)の物部連熊(もののべ の むらじ くま)、大山上守君大石(もり の きみ おおいわ)
  3. 別働隊 - 大山下(だいせんげ)の狭井連檳榔(さい の むらじ あじまさ)・小山下(せうせんげ)の秦造田来津(はた の みやつこ たくつ)

武器や五穀(食糧)も同時に送られている[2]

翌年5月、阿曇比羅夫らは船師(ふないくさ)170艘を率いて、豊璋と途中で加わった鬼室福信らを百済に送り、豊璋を百済王位につけた[3]。百枝たちの任務はいちおう終了した。この後、河辺百枝がどのような働きをしたのかは、描写されてはいない。

天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いは唐・新羅軍の圧勝に終わり、大和政権が百済に擁立した王、余豊璋は、数人の供と船に乗って高句麗へ亡命した[4]。翌月7日、百済軍の拠点であった州柔城(つぬさし)は、唐に降伏した(『資治通鑑』では降伏の日を9月8日としている)。百済の遺民たちは、「百済も今日でおしまいだ」と言い、今後のことを相談する目的で日本軍の駐屯する弖礼城(てれさし)へ行った。そして、日本の軍将に従い、妻子共々船で日本へと向かった[5]

それから14年後、『書紀』巻第二十九によると、天武天皇6年(677年)10月、内小錦上(うちしょうきんじょう)の河辺臣百枝は、民部卿(かきべのかみ)に任命された[6]

一族の河辺臣子首(かわべ の おみ こびと)は天武天皇10年(681年)12月に筑紫国へ派遣されて、新羅使の金忠平(きんちゅうぴょう)を饗応したという[7]。川辺臣は、天武天皇13年(684年)11月の八色の姓で、第2位の「朝臣」のを授与されている[8]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』天智天皇即位前紀条(斉明天皇7年7月24日条)
  2. ^ 『日本書紀』天智天皇即位前紀条(斉明天皇7年8月条)
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇元年5月条
  4. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月27日条、28日条
  5. ^ 『日本書紀』天智天皇2年9月7日条、11日条、13日条、24日条、25日条
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇6年10月14日条
  7. ^ 『日本書紀』天武天皇10年12月10日条
  8. ^ 『日本書紀』天武天皇13年11月1日条

参考文献

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関連項目

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