河野保人
河野 保人(こうの やすと、1932年 - )は、日本のツィター奏者。
経歴
[編集]宮崎県児湯郡都農町出身[1]。小さい頃は音楽教師の叔母にヴァイオリンやピアノ、作曲の手ほどきを受ける[1]。小学5年生の時、叔母の家にあったレコードで初めてツィターの曲を聴く[2][3]。宮崎県立高鍋高等学校卒業後、音楽家を目指して上京。ヴァイオリンの奏者として米軍キャンプを訪問した際、初めて実物のツィターと出会い、演奏家を志すようになった[2][3]。
1960年、ツィターを学ぶためにドイツに渡航。ドイツでもプロの演奏家はほとんどおらず、学校もない為、独学で演奏技術を身に着けつつ、酒場などで演奏する市井の演奏家や教会などを訪ねて、楽譜の収集や採譜を行う。そのようにして集めた楽譜は3000曲以上に及んだ[4]。
1960年半ばから演奏活動を開始[2]。日本各地で定期的な演奏会を開く他、ヨーロッパでも活動を行っている。ツィターはヨーロッパでも奏者が少なくなっていることもあり、世界的な奏者と評価されている[5][6]。1991年には中国の上海音楽学院で同国では初めてのツィター音楽会を開催した[7]。
ツィターの収集家としても知られ、60台以上のコレクションを所持している[2]。
親交
[編集]映画「第三の男」の主題歌の演奏で知られるアントーン・カラスとは生前付き合いがあった。カラスが訪日した際、河野が演奏している店を訪れたのが出会い。その後、2人は意気投合し、共演もするようになった。河野はウィーンに来る際はカラスの元をよく訪れてたという[8]。
また、オーストリアの国立スキー学校に通っていた頃からツィターのファンであった三笠宮寬仁親王とは福祉団体のコンサートに友情出演した時からの知り合い[9]。親王の頼みで動物福祉のチャリティー演奏会を開いた事もある[10]。寛仁親王は1988年に発足した河野保人の後援会の会長も務めた[9][11]。
家族
[編集]長男の直人もツィター奏者。1990年5月にデビューし[12]、1999年10月の北海道釧路市の演奏会で初共演[13]。以降も度々親子で舞台に立っている。長女はドッグトレーナー[10][14]。
脚注
[編集]- ^ a b 「民族楽器のチター演奏会 都農町出身河野さん 宮崎市で /宮崎」.『朝日新聞(宮崎)』.1997年1月10日付朝刊、宮崎面。
- ^ a b c d 「TOKYO発=河野保人さん 親子で継承 日本初「ツィターの男」 弦は数十本 素朴で繊細な音色」.『東京新聞』.2006年11月29日付朝刊、32面。
- ^ a b サライ 2008, p. 160.
- ^ サライ 2008, p. 160-161.
- ^ 「風土の響き 第一の男」.『読売新聞』.1980年12月5日付夕刊、1面。
- ^ 「河野保人ツィターの夕べ 6月26日に筑波第一ホテル<社告> 茨城」.『朝日新聞(茨城)』.1991年5月12日付朝刊、茨城面。
- ^ 「河野保人さん 中国でツィター初演奏(人・ひと・ヒト) 茨城」.『朝日新聞(茨城)』.1991年5月29日付朝刊、茨城面。
- ^ 「チター奏者・カラス、英国国王の前で『第三の男』を弾く(きょう)」.『朝日新聞』.1996年9月21日付夕刊、1面。
- ^ a b 「河野保人さん 埋もれたチター曲を発掘(人きのうきょう)」.『朝日新聞』.1990年1月27日付夕刊、2面。
- ^ a b 「河野保人さん 動物福祉の演奏会を開くチター奏者(ひと)」.『朝日新聞』.1986年6月22日付朝刊、3面。
- ^ サライ 2008, p. 161.
- ^ 「[人模様] ツィター奏者の河野直人さん」.『毎日新聞』.1990年5月2日付朝刊、5面。
- ^ 「今年は親子でツィター演奏 釧路で河野さん /北海道」.『朝日新聞(北海道)』.1999年10月1日付朝刊、28面。
- ^ 週刊朝日 1997, p. 7.
参考文献
[編集]- 「連載2 定番・朝飯自慢 黒パンとザワークラウトのドイツ風献立です」『サライ』、小学館、160-161頁、2008年11月6日。
- 「お父さん、お母さん、ありがとう」『週刊朝日増刊』、朝日新聞社、7頁、1997年3月10日。