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河野千万城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河野 千万城
生誕 1892年4月22日
日本の旗 日本 山口県
死没 (1966-01-25) 1966年1月25日(73歳没)
所属組織 日本海軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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河野 千万城(かわの ちまき、1892年明治25年〉4月22日 - 1966年昭和41年〉1月25日)は、日本海軍軍人海兵42期・海大24期。最終階級は海軍中将

吉川安平 中将(兵22期)は、岳父[1]

経歴

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兵42期を4位で卒業、あえて「通信屋」を選ぶ

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山口県出身[2][3]。大正3年(1914年)12月19日に海軍兵学校兵42期)を4位[4]/117名[5]の好成績で卒業し[4]、大正4年(1915年)12月13日に海軍少尉に任官した[6]

兵42期(大正3年12月19日卒業、117名)の恩賜は2名に絞られており、4位の河野は恩賜の短剣を逸した。なお、1クラス上の兵41期(大正2年12月19日 卒業、118名)の恩賜は4名であった[5]

河野は、海軍通信学校高等科学生[注釈 1]を卒業した「通信屋」である[注釈 2]

なお、河野のようなハンモックナンバー上位者は、主流である「鉄砲屋(海軍砲術学校高等科学生。堀悌吉山本五十六古賀峯一など)」「水雷屋(海軍水雷学校高等科学生。長谷川清南雲忠一山口多聞など))」「航海屋(海軍大学校航海学生。井上成美三川軍一など)」を選ぶのが普通であり、河野が選んだ「通信屋」は傍流であった[7][8]

大正15年(1926年)11月25日、海大甲種学生24期を卒業[9]

昭和10年(1935年)11月15日、海軍大佐に進級すると共に軍令部第2部第4課長[2]。昭和12年(1937年)12月1日、軽巡那珂」艦長[2]

GF先任参謀

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昭和13年(1938年)11月15日、連合艦隊(GF)先任参謀[2][10]。海軍次官・山本五十六中将が昭和14年(1939年)8月30日付で連合艦隊司令長官親補された時のGF先任参謀が河野であり、河野の後任としてGF先任参謀に就任したのが2クラス下の黒島亀人大佐(兵44期)である。

昭和14年11月15日、重巡愛宕」艦長[2]。昭和15年(1930年)10月15日、戦艦扶桑」艦長[2]

潜水戦隊司令官を拝命

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昭和16年(1941年)9月15日、第6潜水戦隊(6Ss)司令官(第3艦隊〈長官:高橋伊望中将〉 隷下)[2]。それまで潜水艦と縁が無かった河野は、突然の補職に驚いたという[11]。直後の昭和16年10月15日に海軍少将に進級し[2]、12月8日の太平洋戦争開戦を迎えた。

6Ss司令官として蘭印作戦などに従事した河野は、昭和17年(1942年)4月1日付で横須賀鎮守府附に転補されて内地に戻り、昭和天皇に拝謁して戦況を奏上した[11]

潜水艦に坐乗して陣頭指揮

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海軍人事当局は、戦地帰りの河野を当面は内地で勤務させる予定だった[11]。しかし、内地帰還から1か月も経っていない昭和17年4月26日、河野は第3潜水戦隊(3Ss)司令官に補された[11]。前任者の三輪茂義少将(兵39期)が急性盲腸炎となった故の緊急人事であった[11]

3Ss司令官として再度出征した河野は、根拠地に停泊する潜水母艦ではなく、第一線の潜水艦に坐乗し、ミッドウェー海戦オーストラリア沿岸での通商破壊戦ガダルカナル島を巡る諸作戦を陣頭指揮した[11]。河野が坐乗する潜水艦が実際に敵艦船を襲撃した例もあった[11]

当時の潜水艦の居住性は最悪であり、戦果を挙げるには敵と刺し違える覚悟が必要であり、潜水艦の出撃に際しては、在泊艦船の総員が見送るのが例であった[12]

昭和17年(1942年)12月5日、軍令部出仕[2]。昭和18年(1943年)1月25日、軍令部第4部長[2]

最後の海軍通信学校長

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昭和19年(1944年)2月15日、海軍通信学校長(敗戦による海軍消滅まで在任)[13]。昭和20年(1945年)5月1日から6月1日まで海軍対潜学校長を兼任[13]

昭和20年5月1日、海軍中将に進級[2]。昭和20年7月20日、海軍艦政本部造兵監督長を兼任したとされる[2][11]

戦後

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1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受けた[14]

追放解除後の1966年昭和41年)1月25日に死去した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「通信屋」たる兵科将校の経る過程は、「海軍水雷学校高等科学生(通信学生)」から、大正14年(1925年)に「海軍通信学校高等科学生」に変遷している[7]
  2. ^ 『現役海軍士官名簿 昭和4年2月1日調』(1929年、海軍省)において、河野の姓名の右肩に「高通、甲種」と明記されている[6]

出典

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  1. ^ 「吉川安平」『人事興信録』 下巻(第12版)、大蔵省印刷局、1915年、ヨ 34頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 外山 1981, pp. 180–187, 第2部 海軍兵学校出身者:海兵42期
  3. ^ 『防長年鑑』(昭和14年版)防長新聞社、1939年、678頁。 
  4. ^ a b 『官報(大正3年12月21日号)』大蔵省印刷局、1914年、520頁。 
  5. ^ a b 秦 2005, pp. 663–665, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-II 海軍-5.海軍兵学校卒業生
  6. ^ a b 『現役海軍士官名簿 昭和4年2月1日調』海軍省、1929年、102頁。 
  7. ^ a b 雨倉 2007, pp. 115–124,
    水校同居人
    オペレーターにあらず
    レーダーは通信長主管
  8. ^ 阿川 2023, 腐れ士官の捨てどころ
  9. ^ 秦 2005, pp. 641–660, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-II 海軍-1.海軍大学校甲種学生
  10. ^ 阿川 2008a, p. 427
  11. ^ a b c d e f g h 兵42期 故 河野千万城中将を偲ぶ(兵48期 鮫島素直)」『海軍電波追憶集』第4号、電波関係物故者顕彰慰霊会、1965年、119-124頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9584748/1/66 
  12. ^ 齋藤 2004, p. 229
  13. ^ a b 秦 2005, p. 459, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-IV 海軍:5.学校:
    通信学校長
    対潜学校長
  14. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」28頁。

参考文献

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  • 阿川弘之『山本五十六』 下巻、新潮社新潮文庫〉、2008a。 
  • 阿川弘之『海軍こぼれ話』(DMMブックス版)、2023年。 
  • 雨倉孝之『帝国海軍士官入門』光人社〈光人社NF文庫〉、2007年。 
  • 齋藤寛『鉄の棺:最後の日本潜水艦』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年。 
  • 外山操 (編)『陸海軍将官人事総覧 海軍編』芙蓉書房、1981年。