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河野盛政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河野盛政
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文10年(1541年
死没 元和3年11月5日1617年12月2日
別名 盛利[1]、通泰[1]、七郎[1]、平十郎[1]、勝左衛門[1]
戒名 栄伝[1]
墓所 泉龍寺東京都狛江市[1]
幕府 江戸幕府旗本
主君 武田信玄勝頼徳川家康秀忠[1]
氏族 河野氏
父母 河野通政
兄弟 盛政照長
太田昌安の娘、小笠原長行の娘
通利通重小笠原貞利通安勝屋正成の妻
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河野 盛政(こうの もりまさ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本。甲斐武田家の旧臣で、武田家滅亡後に徳川家に仕えた。

諱について、貞享の呈譜(貞享書上)では「盛利」、『寛政譜』編纂時の呈譜では「通泰」とある[1]

生涯

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寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、盛政の家は伊予河野氏一族の予州家[注釈 1]の流れを汲み[1]河野通春の孫にあたる河野通房[注釈 2]甲斐国に移って武田家に仕えたとされる[1]。通房の子の河野通政(豊前守)は武田信玄に仕えた後、「故ありて」北条氏康に属し、その後再び武田勝頼に仕え[1]、一説に慶長3年(1598年)に81歳で没した[1][注釈 3]

河野盛政は、天文10年(1541年[注釈 4]に河野通政の子として生まれ、武田信玄勝頼の2代に仕えた[1]天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、6月に徳川家康に仕える[1]。同年8月、天正壬午の乱における御坂峠の戦いで北条軍と戦って武功を挙げ[1]巨摩郡にあった本領を安堵された[1]。天正11年(1583年)1月には、改めて本領八代郡内で300石の地を与えられた[1]。天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いでは首級3を得る[1]。その褒賞として、甲斐国巨摩郡の和田村などで新恩を給付された[1]

天正18年(1590年)には小田原征伐に従軍[1]。家康の関東入国に伴い、盛政の所領も関東に移された[1]。その後、天正19年(1591年九戸政実の乱の際には岩出山城まで出陣[1]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは槍奉行として従軍[1]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では使番として従軍した[1]。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では老齢のため本陣付きを命じられた[1]

家康没後は徳川秀忠の使番となり[1]、所領は930余石に至った[1]元和3年(1617年)11月5日、77歳で死去[1]。武蔵国多摩郡泉村の泉龍寺に葬られた[1]

系譜

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弟に河野照長(新太郎)がおり、別家を立てた[1]。ただし呈譜の情報に疑義があり、照長の没年と享年を信じれば盛政よりも20歳年長の兄になってしまうという[1]

『寛政譜』には4男1女が記されている[2]。家督は長男の河野通利(権右衛門)が継いだが[2]、二男の河野通重、四男の河野通安(才三郎)は別家を立てた[3]。二男通重は家康の小姓を振り出しとして起伏に富んだ経歴をたどり、最終的には御鉄炮頭を務めて1500石の知行を得た。長崎奉行や大目付を務めた河野通定は通重の子である。四男通安は父の遺領から330石の分知を受けたが、寛永3年(1626年)に嗣子のないまま没し、家は絶えた[3]

三男(初名は河野通俊)は、その母(盛政の後妻)の実家である小笠原家を継いで[注釈 5]小笠原貞行を称し[3][4]、 慶長10年(1605年)に徳川秀忠に仕えて400石の旗本となった[4]

備考

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江戸時代には市ヶ谷にあった曹洞宗の寺院・長龍寺[注釈 6]は、河野盛政を開基としている[5][6]。このため油川武田家のほか、武田旧臣の家が多く檀家になっていたという[5][6]。盛政や通安(四男)[3]の墓は泉龍寺にあるが、通利(長男)[3]・通重(二男)[7]・小笠原貞行(三男)[3]は長龍寺に葬られており、各家は以後長龍寺を菩提寺としている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 室町時代前期に伊予守護を務めた河野通之河野通義の弟)にはじまる家。室町時代後期、予州家は通義の子孫(河野本家とされる)と対立関係にあった。
  2. ^ 『寛政譜』によれば、通春の子の通安(七郎、豊前守、法名は恵運)の子が通房(九郎、下総守)であるという。通安は河野通篤の兄とされる。
  3. ^ この「一説」は『寛政譜』編纂時の呈譜。『寛政譜』の系譜では、某年に89歳で没したという記事を載せている[1]
  4. ^ 没年・享年からの逆算[1]
  5. ^ 通俊は母の父である小笠原彦三郎長行の養子となった[3][4]。この小笠原家は小笠原長清の末裔と称するが関係は不分明で、『寛政譜』は長行から系譜を起こしている[4]
  6. ^ 文禄2年(1593年)に江戸麹町四番町(現在の千代田区四番町)で創建されたと伝えられ、元和2年(1616年)に市ヶ谷左内坂(新宿区市ヶ谷左内町)に移転した。1909年(明治42年)に現在の東京都杉並区に移転している[5][6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 『寛政重修諸家譜』巻第六百十一「河野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.207
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百十一「河野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.207-208
  3. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第六百十一「河野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.208
  4. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第二百十二「小笠原」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.66
  5. ^ a b c 富聚山長龍寺|麹町四番町に開創、幕府御使盤河野氏開基”. 猫の足あと. 2022年9月11日閲覧。
  6. ^ a b c 79 長龍寺 【寺院】(高円寺南2丁目31番2号)”. 杉並区教育委員会. 2022年9月11日閲覧。
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百十一「河野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.211-212

参考文献

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