河野節夫
表示
河野 節夫(こうの せつお、1890年(明治23年)8月21日[1] - 1940年(昭和15年)1月3日)は、朝鮮総督府官僚。
経歴
[編集]広島県沼隈郡田島村(現在の福山市)出身[1]。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した[1]。朝鮮総督府試補、事務官、忠清北道第一部地方課長・審査課長、警察官教習所教授、江原道警察部長、全羅北道警察部長、慶尚北道警察部長、臨時国勢調査課長、黄海道内務部長、平安南道内務部長を歴任した[2]。
退官後、朝鮮金融組合理事・事業部長、朝鮮石炭組合聯合会理事長を務めた[2]。
1940年(昭和15年)1月3日、病気療養中に死去、49歳[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c 輓近大日本拓殖史 1934, p. 四七八.
- ^ a b 大衆人事録 1940, p. 朝鮮 十八.
- ^ 「河野節夫氏」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1940年1月5日、夕刊、2面。2024年3月19日閲覧。
参考文献
[編集]- 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版』帝国秘密探偵社、1940年。