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河野通玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河野 通玄
時代 江戸時代初期
生誕 天正14年(1586年
死没 明暦元年5月14日1655年6月18日
別名 藤次郎、掃部助
戒名 恵海(法名)
墓所 興岳寺
主君 武田信玄勝頼徳川家康
氏族 伊予越智氏
父母 父:河野通郷、母:跡部紀伊守の娘
小宮山民部の娘
娘(河野通次妻)、河野通忠河野通国、娘(浜名玄蕃国音の妻)、河野通好河野通勝河野通政
養子:河野通次
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河野 通玄(こうの みちはる)は、江戸時代武将徳川家家臣。八王子千人同心9人の千人頭の一家。

略歴

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慶長3年(1598年)父・河野通郷の後を継ぐ。慶長5年(1600年)会津征伐志村貞精、窪田正吉(窪田吉正)、中村安利山本忠房、計5人の千人頭にて下野国小山参陣。同年の関ケ原本戦にて、配下100人に増員して、千人頭10名。村越直吉と先を争い、徳川家康指名にて河野通玄が指揮にて長柄備を指名される。(家康本陣、遣奉行、河野盛利か?)

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣御先備。

明暦元年(1655年)5月14日死去。享年70。

子孫は八王子千人頭の10家の内の一家として幕末まで旗本として徳川幕府に仕えた。

脚注

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参考文献

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  • 賢甫義哲、「長楽寺永禄日記」、続群書類従完成会、2003年
  • 開沼正、「武蔵国多摩郡における在郷武士について : 八王子千人同心の研究」、佛教大学、2007年
  • 興岳寺
  • 寛政重修諸家譜』巻第千三百七十五

関連項目

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