津田教修
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津田 教修(読み不詳、1850年(嘉永3年)9月 - 1907年(明治40年))は、津田一伝流剣術家、日本陸軍軍人。階級は陸軍中佐。栄典は従五位勲四等功四級。陸軍の軍刀術、銃剣術の創設に貢献した[1]。
経歴
[編集]1850年(嘉永3年)9月、久留米藩藩士、津田一伝流剣術開祖津田一左衛門正之の長男として生まれ、父から剣術を学ぶ[2]。
廃藩後の1872年(明治5年)、22歳で津田一伝流・2代師範役となり[3]、同8年、陸軍兵学寮に入る[3]。
1892年(同25年)陸軍戸山学校教官体操科長となる[3]。陸軍戸山学校では津田が中心となり、それまでフランス式であった剣術教範を改正し、日本の剣術や槍術をもとに片手軍刀術、銃剣術を制定に参画した。
その後、日清戦争に第1師団歩兵第2連隊中隊長で従軍し[4]また日露戦争には少佐で後備歩兵第48連隊大隊長として従軍、のち後備歩兵第20連隊長に補せられ、遼東に転戦して武功を立てた[4]。この間、それらの軍功により中佐に進み、従五位勲四等功四級を賜った[4]。しかし、戦争中大陸で負傷し、1905年(明治38年)8月退役。帰郷療養中、1908年(明治41年)3月13日に没す。
享年58[4]。
1911年(明治44年)10月門人、旧友によって篠山神社境内に「津田一伝流第二世碑」が建立された[4]。碑文は内藤新吾が撰した[4]。
年譜
[編集]- 1876年(明治9年) - 少尉試補
- 1888年(明治21年)11月16日 - 歩兵大尉[3]。
- 1892年(明治25年) - 陸軍戸山学校教官体操科長
- 1893年(明治26年)4月6日 - 一等給[5]
- 1896年(明治29年)
- 1月13日 - 屯田歩兵第3大隊第1中隊長に就任
- 2月22日 - 少佐に昇任
- 5月8日 - 歩兵科に異動
- 1898年(明治31年) - 歩兵第10連隊第3大隊長[6]
- 1901年(明治34年)9月1日 - 予備役[7]
- 1905年(明治38年)8月 - 退役
出典
[編集]- ^ 津田一伝流第二世碑『久留米碑誌』久留米碑刊行会1937.3 P58
- ^ “津田一伝流第二世碑”. 2011年3月6日閲覧。
- ^ a b c d e 津田一伝流第二世碑『久留米碑誌』P591875年
- ^ a b c d e f g 「久留米藩剣術御流儀「津田一伝流」について」荒木英之『久留米信愛女学院短期大学紀要10号』1987、p47
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治27年7月1日調56ページに記載。
- ^ 陸軍現役将校列次名簿. 明治33年28ページに記載。
- ^ 陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿. 明治35年7月1日調査162ページに記載。
参考文献
[編集]- 『月刊剣道日本』1976年11月号34頁、スキージャーナル