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浄岡 広島(きよおか の ひろしま、生没年不詳)は、奈良時代の貴族・医師。氏は清岡とも記される[1]。姓は連。官位は従五位下・典薬頭。
淳仁朝の天平宝字7年(763年)、村国子老・贄土師沙弥麻呂らとともに正六位上から外従五位下に昇叙される[2]。藤原仲麻呂の乱の際の動勢は不明だが、称徳朝では記録に現れていないため、その間、不遇であったものと思われる。その後、時期は不明だが光仁朝では老齢の天皇の侍医になり、侍医のまま、丹後介・典薬頭を歴任し、その間の宝亀6年(776年)正月には従五位下に叙爵している[3]。
『続日本紀』による。
- ^ 『続日本紀』巻第三十三、光仁天皇 宝亀5年3月7日条
- ^ 『続日本紀』巻第二十四、廃帝 淳仁天皇 天平宝字7年正月9日条
- ^ 『続日本紀』巻第三十三、光仁天皇 宝亀6年正月16日条
- 『続日本紀3 (新日本古典文学大系14)』 岩波書店、1992年
- 『続日本紀4 (新日本古典文学大系15)』 岩波書店、1995年
- 『続日本紀5 (新日本古典文学大系16)』 岩波書店、1998年
- 宇治谷孟訳『続日本紀(中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 宇治谷孟訳『続日本紀(下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
- 竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』3 - 654頁、吉川弘文館、1961年
- 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』251頁、吉川弘文館、1990年