浅井敬吾
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浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年11月25日)[1][2] - 1950年(昭和25年)[2])は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。旧姓は山本[2]。
経歴・人物
[編集]信濃国小県郡上田城下(現・上田市)の山本家に生まれ、旧上田藩士・浅井器水の養嗣子となる[2]。東京済生学会を卒業し、東京順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)や横浜十全堂病院(現・横浜市立大学附属病院)を経て、東京帝国大学に入学し、小児選科を修了する[2]。1893年(明治26年)旧制東京医学専門学校卒業[1]。1899年(明治32年)故郷の上田に開業[2]。このころ内村鑑三が訪れ、その影響で上田独立苦楽部を設立し、同会長となる[2]。
1917年(大正6年)上田町会議員を経て、同市会議員となり、当時の市長・勝俣英吉郎をよく助け、上田市の文化都市化に貢献した[2]。1930年(昭和5年)勝俣市長が没すると、市会議員選挙への出馬を諦め、親交のあった安部磯雄の勧めにより社会民衆党に入党した[2]。1934年(昭和9年)から5期11年に渡り長野県医師会長を務め、1940年(昭和15年)12月21日、上田市長に就任した[2][3]。1941年(昭和16年)社会民衆党を離党[2]。戦時体制下において市政を担当し、工場誘致や学校の充足などに尽力した[2]。
在任から6年後の1946年(昭和21年)11月16日、市長を引退し、公職追放となった[4][注 1]。その後横浜へ移住した[2][3]。追放中の1950年(昭和25年)死去。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『公職追放に関する覚書該当者名簿』28頁の氏名が「浅井敬晋」と誤記。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年 。