堀込義雄
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堀込義雄 ほりごめ よしお | |
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生年月日 | 1897年7月10日 |
出生地 |
長野県小県郡神川村蒼久保 (現:長野県上田市) |
没年月日 | 1981年 |
出身校 | 旧制上田中学(現長野県上田高等学校)卒業 |
子女 | 堀込征雄(子) |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1959年5月1日 - 1963年2月10日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1955年 - 1959年 |
神川村長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年 - 1955年[1] |
堀込 義雄(ほりごめ よしお、1897年(明治30年)7月10日[2] - 1981年(昭和56年)[3])は、日本の政治家。長野県小県郡神川村長、上田市長。
来歴
[編集]長野県小県郡神川村[3]蒼久保[4](現上田市)で生まれた。1916年(大正5年)3月、旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)を卒業[2][3][4]。1940年(昭和15年)南佐久郡大日向青年学校長、1944年(昭和19年)同郡北牧穂青年学校長、1945年(昭和20年)北佐久郡軽井沢青年学校長に就任[2]。
1947年(昭和22年)4月、神川村長に当選し2期在任[2][3][4]。菅平硫黄採掘反対運動の中心人物として、神川水系1市10ヶ村鉱毒対策委員長に推薦され、要求貫徹に全力を尽くした[3][4]。1955年(昭和30年)4月、長野県議会議員に選出され1期在任[2][3]。神川農業協同組合長、上小農協組合長会長なども務めた[3][4]。
1959年(昭和34年)日本社会党推薦で上田市長に当選し、1963年(昭和38年)2月まで1期務めた[2][3]。小中学校統合問題、組合立上小衛生施設組合の設立、工場の誘致、市民会館や山本鼎記念館(上田市立美術館)の建設、菅平ダム建設推進などに尽力した[2][3][4]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
- 『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年。