浅尾陣屋
表示
浅尾陣屋(あさおじんや)は現在の岡山県総社市門田(備中国賀陽郡浅尾村)にあった陣屋で、浅尾藩の藩庁である。
概要
[編集]外様大名→交代寄合旗本→譜代大名という系譜の家系である蒔田氏が藩主である。
浅尾藩は蒔田広定が関ヶ原の戦いで西軍に組し、江戸幕府の世になると浅野幸長の執り成しで赦され、慶長8年(1603年)1万石にて備中国浅尾の地に陣屋を置いた事に始まる。陣屋は土塀で囲まれ、御本殿、御台場が丘陵上にあり、その下に家臣の屋敷などがあるといった形であった。
寛永13年(1636年)、2代藩主定正の代に3千石分知した。以降は交代寄合旗本として、実に230年に及ぶ時代を過した。
文久3年(1863年)、12代広孝の代に京都市中見廻りの功により、高直しが行われ1万石の譜代大名となった。
倉敷・浅尾騒動
[編集]元治元年(1864年)の禁門の変が原因で、慶応2年(1866年)に長州藩第二奇兵隊を抜けた浪士達により、倉敷代官所と共々、陣屋が焼き討ちされてしまった。以降十分に再建されないまま明治維新を迎えた。
遺構
[編集]現在、陣屋の遺構として石垣、土塁が残り、稲荷神社、石碑が立っていて、崩れかけた土塀が延々と残り(総社市文化財)、復元した土塀があり、公園となっている。