蒔田広定
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 元亀2年(1571年)[1][2]または天正3年(1575年)[3][4] |
死没 | 寛永13年8月23日(1636年9月22日) |
改名 | 権之助、広定 |
別名 |
廣定(旧字)、正時[4]、通称:権佐、権之助(権肋)、左衛門権佐 異名:八専之助[3][4][5] |
戒名 | 隆栄院殿覚真日見大居士 |
墓所 | 本土寺(千葉県松戸市平賀) |
官位 | 従五位下左衛門権佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼→徳川家康、秀忠、家光 |
藩 | 伊勢雲出藩→備中浅尾藩主 |
氏族 | 蒔田氏(藤原南家維兼支流) |
父母 | 父:蒔田広光、母:木下備中守の娘 |
兄弟 | 政勝(主水正)、広定 |
妻 | 正室:大島光義の娘、継室:石川勝政の娘 |
子 | 定正、右京[6]、長広、次広、女(片桐貞晴室)、正之[7]、勘左衛門 |
蒔田 広定(まいた ひろさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。備中浅尾藩初代藩主。通称は権佐(ごんのすけ)。諱は正時(まさとき)ともする。
略歴
[編集]尾張国中島郡下津の住人蒔田広光の次男として織津で生まれた[1]。豊臣秀吉に仕えてその小姓頭の1人となった。
天正18年(1590年)7月、北条氏政・氏照兄弟が小田原城を出て自害した時、広定は秀吉の小姓の身であったが、石川貞清・榊原康政らと共に検使役を務めた[3]。同19年(1591年)8月9日、鼻紙料の名目で河内国大県郡大平寺村で104石の知行を与えられた[3][4]。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉の旗本の後備衆の1つとして200人を出して、肥前名護屋城に駐屯し、東二の丸を守備した[3]。
文禄3年(1594年)、伏見城普請に参加[3]。翌年に父の広光が死去したため家督を継いで、河内・伊勢・備中にあった所領の1万16石を領した[3]。本拠は雲出(現三重県津市雲出)。
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、遺物道永の刀を受領[4]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伊勢口や大坂本町筋橋の警固をした後、占領された伊勢安濃津城に駐屯した[3]。関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、高野山に逃れて蟄居し、所領は没収されて改易となった。しかし岳父の大島光義や、浅野長政・幸長親子の尽力もあって、罪を許されて所領安堵されることになり[3]、備中賀陽郡・窪屋郡・浅口郡、河内大県郡、山城久世郡、摂津豊島郡・八部郡の七郡の内に1万石を与えられて[1]、備中浅尾1万石に転封されて、浅尾藩を立藩した。
慶長7年(1602年)剣術の師・柳生宗厳から印可状を与えられた[8]。
慶長19年(1614年)、20年(1615年)の大坂の陣に従軍[9]。閏6月に徳川秀忠の凱旋に供奉して江戸に向かう[9]。
元和9年(1623年)、寛永3年(1626年)の秀忠・家光の上洛に供奉した[9]。
寛永13年(1636年)に死去。享年62[3][11]あるいは66[12][9]という。
脚注
[編集]- ^ a b c 堀田 1923, p. 941.
- ^ 総社市史編さん委員会 編『総社市史 通史編』新総社市、1998年。
- ^ a b c d e f g h i j 桑田 1971, p. 101
- ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 228.
- ^ 秀吉が命名したもので、石川貞政を「土用之助」、広定を「八専之助」と呼んだ。小姓番の期日のことらしい。
- ^ 松平正綱の家臣。
- ^ 池田吉泰の家臣。
- ^ 本林義範、「柳生宗厳兵法伝書考 -毛利博物館所蔵資料を中心として-」『論叢アジアの文化と思想』 1995年 4巻 p.27-45, アジアの文化と思想の会
- ^ a b c d 堀田 1923, p. 942.
- ^ 桑田忠親「国立国会図書館デジタルコレクション 徳川秀忠の御伽衆」『大名と御伽衆』青磁社、1942年、74, 80頁 。
- ^ 『蒔田家譜』『天正年中大名帳』による[4]。
- ^ 桑田 1942, p. 80.
参考文献
[編集]- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、101頁。ASIN B000J9GTRU
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、941-942頁 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、228頁。