蒔田政勝
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長12年4月13日(1607年5月8日) |
改名 | 廣政(初名)→政勝 |
別名 |
廣政/広政、正次[1] 通称:助之丞[2]、主水正 |
官位 | 従五位下 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼 |
氏族 | 蒔田氏 |
父母 | 父:蒔田広光 |
兄弟 | 政勝、広定 |
子 | あり[3] |
蒔田 政勝(まいた[4]/まきた[2] まさかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊臣家の譜代家臣。通称は主水正。諱は初めは広政で、正次ともいった[1]。
略歴
[編集]尾張国織津の出身という蒔田広光の長男。姓は『寛政譜』等では「まきた」と読みがふってある[2]。
豊臣秀吉に仕えて金切裂指物使番となった。主に「蒔田主水正」の名で知られ、秀吉の小姓である蒔田権佐は弟。
天正16年(1588年)4月14日の後陽成天皇の聚楽第行幸のときに供奉。関白(秀吉)の牛車の左右の随身のうち、毛利民部大輔・野村肥後守・木下左京亮が左側3名、政勝・中嶋左兵衛尉・速水甲斐守が右側3名であった[5]。
慶長3年(1598年)8月、病床の秀吉から志津の刀、初音の加羅香、(後陽成天皇の[2])鏡を授けられた[1]。
慶長4年(1599年)頃、摂津・河内・和泉内で4万石を知行[6]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の役で西軍に与して減知。以後は大坂城の豊臣秀頼に伺候した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、941頁 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、228頁。