浅間丸事件
浅間丸事件(あさままるじけん)は、1940年(昭和15年)1月21日、房総半島野崎岬沖40キロ(25マイル)の太平洋(公海)上で発生した国際的事件[1]。イギリス巡洋艦「リヴァプール」が日本郵船所属の客船「浅間丸」を臨検し、「リヴァプール」側は浅間丸船客のドイツ人男性21人を戦時捕虜の名目で逮捕連行した[注釈 1]。 その後、日英の外交交渉によりドイツ人船客9名が解放された[注釈 2]。
背景
[編集]1939年(昭和14年)9月3日に英仏が第二次世界大戦においてナチス・ドイツに宣戦を布告し、その直後にイギリス客船「アセニア」がドイツ海軍のUボートに無警告で撃沈された[4]。同船の沈没により128名が犠牲になるなど[注釈 3]、開戦当初より大西洋上では英独海軍の熾烈な戦闘が繰り広げられていた(大西洋の戦い)。強力な海軍力を持つイギリスはドイツ商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にし、自沈や中立国での係船を余儀なくするに至らしめた。
しかし、浅間丸の所属する日本や、出港地のアメリカ合衆国は第二次世界大戦には参加せず[注釈 4]、また太平洋ではドイツ海軍と連合国軍による戦闘は発生しなかった。太平洋を挟んだ両国間では商船会社による定期運航が、上記のような戦争当事国に関係する物資や人員の輸送に制約をもうけながらも比較的に平穏に行われており、日本などのアジアとヨーロッパ間を行き来する人々のルートの1つとしても使用されていた。
臨検と拉致
[編集]英独開戦後、イギリス海軍省と日本各商船会社の間では戦時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定が結ばれていたが、日本郵船の「浅間丸」は日本大使館の強い要請により、前年12月に大西洋で沈没したドイツ客船「コロンブス (SS Columbus)」の船員など51名を乗客に加え、1939年12月にサンフランシスコよりホノルルを経由して横浜港に向けて出航した[注釈 5]。 翌1940年(昭和15年)1月21日、千葉県房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)でイギリス中国艦隊所属の軽巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制された[6][注釈 6]。
臨検は士官3名と武装水兵9名により行われた。船長は当初、イギリス領海で「榛名丸」にドイツ人船客を乗せて通行できた1938年9月の先例をあげて拒否したが、イギリス軍の戦時国際法による強硬な乗客の身元調査の要求により、ドイツ人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、イギリス軍が所持する名簿と照会の上「国際公法上の権利」として21名の連行を船長に通告し、戦時禁制人と看做された少年も含む男性乗客とヘルマン・グロース船長などを「戦時捕虜」の名目で浅間丸船上より身柄を拘束し連行した。
事件後
[編集]抗議
[編集]この事件で、1月16日に成立したばかりの米内内閣はいきなり難題を背負う事になった。イギリス海軍側の「浅間丸」に対する公海上における臨検とドイツ人乗客に対する措置は、戦時国際法の上で適切なものであった[注釈 1]。これに対し、外務省は1909年のロンドン宣言47条「中立国船上から拉致できる者は既に軍籍にある交戦国人に限る」を根拠とし、ロバート・クレイギー駐日イギリス特命全権大使を外務省に招致して正式に抗議した[6]。
日本のマスコミ各新聞と国民は「帝国の面目に泥を塗った」などと一斉にイギリス海軍を非難したほか[7]、マスコミは「友邦のドイツ人を無抵抗で引き渡した」として浅間丸船長の渡部喜貞に対しても激烈な批判を行った。『写真週報』では「浅間丸ドイツ船客拉致事件」というタイトルをつけ[8]、『報知新聞』は「国民の感情を無視するな」と主張した[9]。
だが「浅間丸」の船長が21人のドイツ人引渡しを拒み、それが「浅間丸」の敵対行動とイギリス軍艦よりみなされた場合は、船体は拿捕の対象となり、乗客全員も一時的とはいえ勾留される危険をはらんでいた。日本海軍首脳は、イギリス海軍の行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして特に問題とは考えず、船長の判断も妥当との認識であった。ただし、日本郵船は世論に考慮して1月24日には船長を交代させた[10]。
宇垣一成は1月26日の日記に、日本は類似の事件を日中戦争に関連して中国大陸沿岸封鎖中のイギリスの植民地の香港や、フランスの植民地のハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している[1]。
交渉
[編集]問題は戦時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点であった。この点を米内内閣の有田八郎外務大臣はクレーギー大使を通じてイギリス政府に対して交渉を行い、イギリス政府も外相のハリファックス卿を通じて行き過ぎがあったことを認める[11]。2月5日に以下の公式発表があった[12]。
- 日本政府は、イギリス軍艦の行為は遺憾とするイギリス政府の表明を了承する。
- イギリス政府は、比較的に兵役勤務が難しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。
- 日英両政府は、この種の事件の再発防止に努める。日本政府は、交戦国軍人(疑いある者含む)の乗船引受けを禁止する。
列強の1国であり、かつアジア太平洋地域で大きな軍事力を持つ日本と無用な衝突が起こることを憂慮したイギリスは、日本との間の交渉の決着を受けて、同年2月29日に9人を横浜のドイツ領事館前で解放する。さらに日本側の約束を尊重し、イギリスは日本船の臨検を自粛することになった[注釈 2]。
しかし、この事件は当時関係が懸念された日本とイギリスの国際問題に発展した。日本国内では、米内内閣の対応を米英に対する「弱腰」の表れとみなして批判する動きが強まった[13]。そして独ソ不可侵条約の締結により締結にこぎつけなかった日独同盟から、新たに日独伊三国同盟締結への材料の一つとして使用された[13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 一月二十一日太平洋に於て豫期せざる反響を與へた一事件が起つた[2]。日本汽船淺間丸は日本海岸を距る三十五浬沖で一英國巡洋艦の爲に停止を命ぜられ、同艦に乗せてゐた曩に大西洋にて自沈した獨汽船コロンブスよりの生存者二十一名の獨人で浦潮斯徳及露領を經て歸國する豫定の者を捕虜として同艦に移乗させたのである。此の行爲は全く國際法に從つたものである。然るに日本は之に對して全く豫期せざる不滿を示し、東京に於ては排英示威運動があつた。日本は抗議を提出した。此の抗議はそれ程國際法を根據としたるものではなく、日本海岸の殆んど視界内に於て發生したことを同國人に對する侮辱と思爲したるに由るものである。日本政府は此の抗議を提出するに全く前例又は法律に基くといふよりは、寧ろ國内に於ける與論の喧寞に從つたものの如くでえある。何となれば、日本自ら支那海面に於て外國船を停船せしむるに逡巡することは稀であつたからである。然し之は何等問題の解決を容易ならしめたものではない。(以下略)
- ^ a b 淺間丸より連行した獨逸人問題に關する日本との紛爭は此の月の初に、大部分東京駐在英國対しサー・ロバート・クレーギーの練達なる外交的手腕に依つて妥協に基いて解決した[3]。英國政府は監禁せる獨人の内九名を、其の兵役關係の疑問が晴れたといふ理由を以て之を日本に引渡すことに同意した。之は其の自尊心に對する譲歩として、曩に二十一名全部の要求を固執したる日本政府の受諾する所となつた。同時に将来兵役年齢の交戰國臣民は船客として日本船に乗せない筈である、而して之を基礎として日本船を停船する必要は起らぬであらう、といふ訓令が發せられた。
- ^ この潜水艦はU-30であり、レンプ艦長はアセニア号が補助巡洋艦 (Auxiliary Cruiser) だと判断して攻撃したという[5]。
- ^ ただしアメリカは、その海軍力を用いて中立パトロールを実施した。
- ^ ドイツ客船コロンブスは、ニュージャージー州メイ岬沖の大西洋でイギリス海軍駆逐艦「ハイぺリオン」に追跡され、12月19日に自沈した。コロンブス乗客の大多数は現場にいたアメリカ海軍の重巡洋艦「タスカル―サ」に収容され、遭難者としてアメリカ本土に上陸した。
- ^ 当時の「リヴァプール」艦長は、A.D.リード大佐 (Arthur.Duncan.Read) であった。
出典
[編集]- ^ a b 北岡伸一 2012, p. 328
- ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 46原本77頁
- ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 47原本78-79頁
- ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 31原本47頁
- ^ ペイヤール、潜水艦戦争 1970, pp. 57–58アシーニア号事件、一九三九年九月三日
- ^ a b 「週報 第172号」p.23
- ^ 「写真週報 107号」p.3、「本日の新聞概観(第百三十五号)」p.1-3
- ^ 「写真週報 101号」p.4
- ^ 「本日の新聞論調(第四百二十一号)」p.4
- ^ 豊田穣 1978, p. 299
- ^ 「週報 第174号」p.11
- ^ 「写真週報 103号」p.8、「週報 第174号」p.12
- ^ a b 豊田穣 1978, p. 301
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.A06031069600「写真週報 101号」(接近するリヴァプールや連行されるドイツ船客の写真を掲載している)
- Ref.A06031069800「写真週報 103号」(昭和15年2月14日)・浅間丸事件の交渉成功を報じる記事。
- Ref.A06031070200「写真週報 107号」(昭和15年3月13日)・横浜で解放されるドイツ船客9名の様子。
- Ref.A06031033400「週報 第172号」(昭和15年1月31日号) 外務省「浅間丸事件について」
- Ref.A06031033600「週報 第174号」(昭和15年2月14日号) 外務省「浅間丸事件の交渉経過」
- Ref.A06050128400「百四十八 外交報告・浅間丸事件」
- Ref.A03024555600「本日の新聞概観(第百三十五号)」
- Ref.A03024557200「本日の新聞論調(第四百二十一号)」
- Ref.A03024558100「本日の新聞論調(第四百二十二号)」
- Ref.A03024559600「重慶ロイテル新聞電報放送(二十四日)」
- Ref.B02030016900「2.第七十五議会ニ於ケル有田外務大臣演説及質疑応答 昭和十五年二月」
- Ref.B02031417900「5.第七十五議会関係/3 第七十五議会ニ於ケル外交関係質議応答要旨 1」
- Ref.B02031418000「5.第七十五議会関係/4 第七十五議会ニ於ケル外交関係質議応答要旨 2」
- Ref.B02031418100「5.第七十五議会関係/5 第七十五議会ニ於ケル外交関係質議応答要旨 3」
- Ref.B02031418200「5.第七十五議会関係/6 第七十五議会ニ於ケル外交関係質議応答要旨 4」
- Ref.B02031418300「5.第七十五議会関係/7 第七十五議会ニ於ケル外交関係質議応答要旨 5」
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終會編輯部同人 共譯「第三章 英國海軍時事(戰爭勃發後)」『一九四〇年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1940年10月 。
- 北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』筑摩書房、2012年9月。ISBN 978-4-480-86406-2。
- 豊田穣『激流の孤舟―提督・米内光政の生涯』講談社、1978年8月。ASIN B000J8NAPK。
- 福井静夫『福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8。
- レオンス・ペイヤール 著、長塚隆二 訳『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。