海沼實
海沼 實 | |
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生誕 | 1909年1月31日 |
出身地 | 日本 長野県埴科郡松代町 |
死没 | 1971年6月13日(62歳没) |
学歴 | 東京音楽大学 |
ジャンル | 童謡 |
職業 | 作曲家 |
海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。
経歴
[編集]長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。
1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校高等師範科(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。
1938年に「お猿のかごや」で初めてのヒットを記録すると、以後「あの子はたあれ」、「ちんから峠」、「めだかの幼稚園」、「花やさん」、「つばめの旅」、「からすの赤ちゃん」、「やさしいおかあさま」など、数多くの国民的ヒット作品を生みだした。
1941年には関東児童唱歌コンクールにも出場して入賞。翌年には2位、さらに翌年には1位と2位を独占して完全優勝した。
戦争中、多くの歌手や作詞家、作曲家らが東京を離れ疎開する中、毎日のように内幸町のNHKスタジオに通い、童謡を放送し続けた。
終戦直後の混乱期には、戦災に苦しんだ子ども達を励まそうと「見てござる」、「里の秋」、「みかんの花咲く丘」、「夢のお馬車」などを発表し、再び国民的な大ヒットを記録。
1947年以降はコロムビアと専属契約を結んで活動し、日本音楽著作権協会、日本作曲家協会、日本童謡協会などの役職を歴任。
童謡作曲家として最も多くのヒット作に恵まれたことから「童謡のかみさま」と称された一方、晩年は童謡排斥派から「最後の童謡作曲家」と揶揄されることもあった。川田三姉妹をはじめとする童謡歌手の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後の童謡黄金期を形成した作曲家として、その功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。 菩提寺は東京の築地本願寺で、墓所は築地本願寺の和田堀廟所内にある。
近年、正統派の童謡評論家[誰によって?]として活動している三代目海沼実は海沼の孫にあたる。
作品
[編集]戦前~戦中
- 『またあしたね』作詞:横堀恒子
- 『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
- 『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
- 『花屋さん』作詞:高田三九三
- 『つばめの旅』作詞:三苫やすし
- 『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
- 『軍艦旗の歌』昭和13年、作詞:松美佐雄
- 『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
- 『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
- 『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
- 『欲しがりません 勝つまでは』昭和17年、作詞:山上武夫
戦後
- 『見てござる』昭和20年、作詞:山上武夫
- 『里の秋』昭和20年、作詞:斎藤信夫
- 『みかんの花咲く丘』昭和21年、作詞:加藤省吾
- 『蛙の笛』昭和21年、作詞:斎藤信夫
- 『母さんたずねて』昭和21年、作詞:斎藤信夫
- 『夢のお馬車』昭和22年、作詞:斎藤信夫
- 『夢のおそり』昭和22年、作詞:斎藤信夫
- 『お花のホテル』作詞:加藤省吾
- 『かぐや姫』作詞:加藤省吾
- 『すずらんの花さく丘』作詞:加藤省吾
- 『たのしい朝』作詞:加藤省吾
- 『ちょうちょのお夢』作詞:加藤省吾
- 『みどりのそよ風』作詞:加藤省吾
- 『青い風』作詞:勝承夫
- 『つばめの旅』作詞:三苫やすし
- 『花やさん』作詞:高田三九三
- 『ワン・ツー・スリー・ゴー』第6回日本レコード大賞童謡賞受賞曲
- 『うまれたきょうだい11にん』第11回日本レコード大賞童謡賞受賞曲
- 『明るい街』(イケダの灯油・テーマソング)作詞:島来展也
参考文献
[編集]- 『長野県風土記』 旺文社、1986年
- 『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社、1989年
- 『童謡 心に残る歌とその時代』NHK出版、2003年3月
- 『最後の童謡作曲家 海沼實の生涯』 ノースランド出版、2009年3月