コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

成田為三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
成田 為三
基本情報
生誕 1893年12月15日
出身地 日本の旗 日本 秋田県北秋田郡米内沢町
(現・北秋田市米内沢)
死没 (1945-10-29) 1945年10月29日(51歳没)
連合国軍占領下の日本の旗 連合国軍占領下の日本
学歴 秋田県師範学校卒業
東京音楽学校甲種師範科卒業
ジャンル クラシック音楽
合唱
童謡
職業 作曲家
教育者
活動期間 1916年 - 1945年

成田 為三(なりた ためぞう、1893年明治26年)12月15日 - 1945年昭和20年)10月29日)は、秋田県出身の日本作曲家教育者。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教授。

生涯

[編集]

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれる。1909年(明治42年)、鷹巣准(準の古字)教員準備場を卒業、秋田県師範学校に入学[注釈 1]1913年大正2年)に同校を卒業後、鹿角郡毛馬内町(現、鹿角市十和田)の毛馬内小学校で教鞭を一年間執る。1914年(大正3年)、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。1916年(大正5年)頃、「はまべ(浜辺の歌)」を作曲している[1]

1917年(大正6年)に同校を卒業[2]。卒業後は九州佐賀県師範学校[2]の義務教生をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多くの作品を発表する。

1922年(大正11年)にドイツのベルリンに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーンドイツ語版和声学対位法作曲法を、カール・ハインリヒ・バルトにピアノを師事したほか、指揮法も習得した[1][3]1926年(大正15年)に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928年(昭和3年)に川村女学院(現在の川村学園)講師、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の講師も兼ねた。1942年(昭和17年)に東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)の教授となる。1945年(昭和20年)4月13日に空襲滝野川の自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。

実家で半年の疎開生活を送った後、1945年(昭和20年)10月27日玉川学園の教員として迎えられたため再び上京するが、29日脳溢血により死去した[1]。51歳没。葬儀は玉川学園の講堂で行われ、東京高等音楽学院と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。生家は阿仁川べりにあったが、1959年(昭和34年)に護岸工事で無くなっている。

主な作品

[編集]

浜辺の歌」や「かなりや[注釈 2]などをはじめとする歌曲・童謡の作曲家、という印象が強いが、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったことはあまり知られていない。愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつある。

管弦楽

[編集]
  • 二つのローマンス
  • 交響曲「東亜の光」

室内楽

[編集]
  • ヴァイオリンとピアノのためのカノン ト長調(1925年出版)[4]

ピアノ

[編集]

CD「成田為三ピアノ曲全集」[注釈 3]2007年白石光隆の演奏によりたまゆらからリリースされた。

  • メヌエット
  • ロンド ロ短調(1925年出版)[5]
  • フーゲ ハ長調(1926年出版)[6]
  • 四季
    • 秋 - 月を仰ぎ ハ短調(1934年出版)[7]
  • フーゲ ト長調(1936年出版)[8]
  • ピアノソナタ ト短調 第1楽章(1937年出版)[9]
  • 浜辺の歌」変奏曲
  • ロンド ト短調(1943年出版)[10]
  • 君が代」変奏曲(1943年出版)[11]
  • さくら」変奏曲(1965年出版)[12]

独唱

[編集]
  • 浜辺の歌(本人編曲による女声合唱版がある)
  • 望郷の歌
  • 清怨
  • 赤い鳥小鳥
  • 犬のお芝居
  • かなりや
  • りすりすこりす
  • はっぱ
  • みのり(国民歌謡)
  • 昼と夜と(三木露風 詞)[13]

混声合唱

[編集]
  • とこしへに
  • 松島や
  • 敷島の(本居宣長 詞)[14]
  • 母よ、さらば
  • 梅花
  • 秋田おばこ
  • 庄内おばこ
  • 佐渡おけさ

女声合唱

[編集]
  • うらうらと
  • 見渡せば
  • すみれ
  • ほろほろと

男声合唱

[編集]
  • 不盡山を望みて

団体歌

[編集]

著書

[編集]
  • 『創作唱歌』敬文館〈第1集〉、1919年5月。全国書誌番号:23982282 
  • 『創作唱歌』敬文館〈第2集〉、1919年6月。全国書誌番号:23982283 
  • 『創作唱歌』敬文館〈第3集〉、1919年8月。全国書誌番号:23982284 
  • 『創作唱歌』敬文館〈第4集〉、1919年11月。全国書誌番号:23982285 
  • 『初めて学ぶ人の対位法及び作曲法』先進堂、1929年。NDLJP:1177822 
  • 『対位法の基礎(作曲法講座)』音楽世界社、1935年。NDLJP:1229392 
  • 『和声学』六星館、1935年。NDLJP:1258711 
  • 『楽式』音楽世界社、1936年。NCID BA45865836 
  • 『楽器編成法』白眉出版社、1943年。NCID BA82451162 

編著・共著

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 秋田県師範学校では、秋田県民歌を作詞した倉田政嗣と同級だった。
  2. ^ 『赤い鳥』に楽譜が掲載された最初の曲となった。
  3. ^ 全集と銘打ってはいるが、白石光隆のCDには「ロンド ロ短調」と「フーゲ ハ長調」の録音は含まれていない。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 玉川学園.
  2. ^ a b 卒業生氏名」『東京音楽学校一覧 従大正6年至大正7年』東京音楽学校、1917年、102頁。NDLJP:941209https://dl.ndl.go.jp/pid/941209/1/57 
  3. ^ 現代音楽大観 1927.
  4. ^ 成田為三「Kanon(ヴアイオリン ピアノ曲)」『女性』 8巻、6号、プラトン社、1925年12月、128-133頁。NDLJP:1566320https://dl.ndl.go.jp/pid/1566320/1/58 
  5. ^ 成田為三「Rondo」『女性』 7巻、6号、プラトン社、1925年6月、1-6頁。NDLJP:1566314https://dl.ndl.go.jp/pid/1566314/1/68 
  6. ^ 成田為三「Fuge」『女性』 9巻、6号、プラトン社、1926年6月、154-159頁。NDLJP:1566326https://dl.ndl.go.jp/pid/1566326/1/89 
  7. ^ 成田為三 著「秋 - 月を仰ぎ(四季のうち)」、大日本作曲家協会 編『日本作曲年鑑 1934』共益商社、1934年、132-133頁。NDLJP:1235397https://dl.ndl.go.jp/pid/1235397/1/73 
  8. ^ 成田為三 著「フーゲ」、大日本作曲家協会 編『日本作曲年鑑 1936』共益商社、1936年、104-107頁。NDLJP:1231315https://dl.ndl.go.jp/pid/1231315/1/64 
  9. ^ 成田為三 著「ソナータ [第一楽章]」、大日本作曲家協会 編『日本作曲年鑑 1937』共益商社、1937年、120-127頁。NDLJP:1231321https://dl.ndl.go.jp/pid/1231321/1/72 
  10. ^ 成田為三 著「Rondo」、大日本作曲家協会 編『日本作曲年鑑 昭和十六年版』共益商社、1943年、142-151頁。NDLJP:1229894https://dl.ndl.go.jp/pid/1229894/1/84 
  11. ^ 成田為三『「君が代」變奏曲』東京音楽書院、1943年。NDLJP:1121223 
  12. ^ 成田 1965.
  13. ^ 成田為三 著「晝と夜と」、大日本作曲家協会 編『日本作曲年鑑 昭和十三年度』共益商社、1938年、2-5頁。NDLJP:1231329https://dl.ndl.go.jp/pid/1231329/1/14 
  14. ^ 成田為三 著「混聲合唱 敷島の [變奏曲]」、大日本作曲家協会 編『日本作曲年鑑 昭和十四・五年版』共益商社、1940年、72-77頁。NDLJP:1231336https://dl.ndl.go.jp/pid/1231336/1/49 

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]