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清水文雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清水 文雄(しみず ふみお、1903年明治36年)6月6日 - 1998年平成10年)2月4日)は、熊本県出身の国文学者和泉式部など中古文学中世文学の研究で有名。作家・三島由紀夫の才能を見出したことで知られる。

経歴

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1932年(昭和7年)、広島文理科大学卒業。1933年(昭和8年)、蓮田善明栗山理一池田勉と共に「国文学試論」を発行。1938年(昭和13年)、蓮田たちと共に「文藝文化」創刊。

1938年(昭和13年)、国語教師として旧制成城高校から学習院に赴任。1939年(昭和14年)、当時中等科3年生だった平岡公威(三島由紀夫)に、国文法作文を教える。1940年(昭和15年)、寄宿舎の星雲寮舎監。1941年(昭和16年)8月上旬、「文藝文化」編集会議にて、平岡公威が書いた短編『花ざかりの森』の同誌掲載を推薦。なお三島が共に師事した国文学教師の同僚に松尾聰がいる。

花ざかりの森』を掲載の際、父・平岡梓により文学を厳禁されていた平岡公威のため、筆名(ペンネーム)の使用を提案した。修善寺での同人誌「文藝文化」編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという。そして、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した平岡公威本人が提示した「三島由紀雄」の名に対して、清水は「由紀雄」は重過ぎると助言し「三島由紀夫」となった。

第二次世界大戦後に学習院を辞し、戦後復興のため広島に赴任。広島師範学校や新制発足した広島大学に勤務。1966年(昭和41年)7月には、三島が『豊饒の海 第二巻 奔馬』の取材で、神風連の地・熊本市を8月に訪れる際の案内者・荒木精之を紹介した。また熊本に行く前に、広島に訪れた三島を江田島海上自衛隊第1術科学校や、清水の読書懇談会「王朝文学の会」にも案内する。

1967年(昭和42年)、広島大学退官に際し、三島は「広島大学国文学攷 退官記念号」に、評論『古今集新古今集』を寄稿した[1]。以後は比治山女子短大(現:比治山大学)教授、のち学長[2]に就いた。終生広島に在住した。三島自決後もいくつかの追悼回想を行っている。1993年(平成5年)には、大学図書館に「三島由紀夫文庫」が設置された。

1998年(平成10年)2月4日、肺炎で逝去。享年94。

2003年(平成15年)8月に、両者の交流を示す書簡集『師・清水文雄への手紙』が新潮社(解説宇野憲治)で出版された[3]

校訂・著書

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  • 和泉式部歌集の研究 (笠間叢書342)』(笠間書院、2002年)
  • 『校定本 和泉式部集 正・続 (笠間叢書 160)』(笠間書院、1981年、新装版1994年)
  • 『和泉式部研究 (笠間叢書 209)』(笠間書院、1987年)
  • 『和泉式部集総索引 (笠間索引叢刊 105)』(笠間書院、1993年)
  • 『和泉式部集・和泉式部続集』(岩波文庫、改版 1983年)
  • 『和泉式部日記』(岩波文庫、改版 1981年)
  • 『和泉式部歌集』(岩波文庫、1956年)、文庫は各校訂
  • 衣通姫の流 (古川叢書)』(古川書房、1978年)
  • 『王朝女流文学史 (古川叢書)』(古川書房、1972年、新装版1982年)
  • 『清水文雄「戦中日記」 文学・教育・時局』(清水明雄編、笠間書院、2016年)
  • 『河の音』(王朝文学の会、私家版、1967年)、※以下は随想集(非売品)
  • 『続 河の音』(王朝文学の会、私家版、1984年)
  • 『随想集 河の音 抄』(比治山女子短期大学、1986年)
  • 『随想集 海』(私家版、1992年)

参考文献

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  • 安宗伸郎[4]『清水文雄先生に導かれて・王朝文学の会の軌跡』(広島・溪水社、2004年)
  • 三島由紀夫『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)
  • 『三島由紀夫文庫目録 ・清水文雄先生旧蔵』(比治山女子短期大学図書館編、1993年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集 42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)

脚注

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  1. ^ 新版は『三島由紀夫文学論集 Ⅲ』(虫明亜呂無編、講談社文芸文庫、2006年)に収録
  2. ^ 就任期間は1981年から1990年まで。『師・清水文雄への手紙』収録の年譜より
  3. ^ 『決定版 三島由紀夫全集(38) 書簡』(新潮社、2004年)に再録。
  4. ^ 関係者による回想伝記

外部リンク

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