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清洲飛行場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清洲飛行場
Kiyosu Airfield(Closed Airfield)
清洲飛行場の空中写真(1945年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
IATA: ? - ICAO: ?
概要
国・地域 日本の旗 日本
所在地 愛知県海部郡甚目寺町石作
(現・愛知県あま市石作)
種類 軍用
所有者 大日本帝国
運営者 大日本帝国陸軍
開設 1944年10月
閉鎖 1945年
所在部隊 飛行第5戦隊
座標 北緯35度12分02秒 東経136度49分19秒 / 北緯35.200529度 東経136.821844度 / 35.200529; 136.821844座標: 北緯35度12分02秒 東経136度49分19秒 / 北緯35.200529度 東経136.821844度 / 35.200529; 136.821844
地図
飛行場跡地の位置
飛行場跡地の位置
清洲飛行場
飛行場跡地の位置
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清洲飛行場 (きよすひこうじょう、: Kiyosu Airfield)は、かつて愛知県海部郡甚目寺町(現・あま市)と西春日井郡清洲町(現・清須市)にまたがる地区に存在した大日本帝国陸軍飛行場である。

歴史

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太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。全長1500m・幅約60mの滑走路と2本の誘導路を備え、B29を始めとする本土襲撃の迎撃基地として整備された。陸軍の飛行第五戦隊が配属され、戦闘機約60機が配備された。

1945年(昭和20年)の終戦後、約12年かけて元の農地へと開拓されたが、現在もわずかに跡地が残っている。甚目寺公民館敷地内には、開拓記念碑が建てられている[1]

1972年(昭和47年)には飛行場跡地に愛知県立五条高等学校が開校し、1976年(昭和51年)には甚目寺町立甚目寺東小学校が開校した。1988年(昭和63年)には東名阪自動車道(現: 名古屋第二環状自動車道)が飛行場跡地を横断して開通した。

沿革

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  • 1944年(昭和19年)3月18日 - 建設を発表
  • 1944年(昭和19年)10月 - 完成
  • 1945年(昭和20年)8月15日 - 終戦

脚注

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  1. ^ 『甚目寺飛行場』あま市教育委員会(2020年9月)・A4判72ページ