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渋江政光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渋江 政光
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正2年(1574年
死没 慶長19年11月26日1614年12月26日
改名 荒川弥五郎、渋江政光
別名 通称:内膳
墓所 京都市下京区本覚寺
秋田市全良寺
主君 小山秀綱佐竹義宣
出羽久保田藩家老
氏族 渋江氏
父母 父:荒川秀景養父:渋江氏光
兄弟 政光小場宣忠[1]
正室:馬場政直
妾:真壁氏
真壁幸幹室、光久[2]宮田次忠室、
宣光佐竹義章室、光俊小川家宗
小場宣利
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渋江政光の言、「国の宝は山なり、山の衰えはすなわち国の衰えなり」が記された石碑。秋田県仙北市秋田県県民の森にて

渋江 政光(しぶえ まさみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将小山家佐竹家家臣。出羽久保田藩(秋田藩)の家老を務めて藩政改革を行った。通称内膳

生涯

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天正2年(1574年)、下野国小山秀綱家臣・荒川秀景の子として誕生した。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原征伐の際に抵抗した小山家改易されて、政光も浪人となった。しかし、政光の才能を見込んだ佐竹家家臣・人見藤道の推挙で佐竹義宣に仕え、20歳の時に佐竹家の重臣であった渋江氏を相続することになり、荒川弥五郎から渋江内膳政光に改名する[3]

関ヶ原の戦い後、秋田に減転封された佐竹家では義宣が家中の改革を断行し、慶長8年(1603年)に政光は家老に抜擢された。だが、他家の旧臣である政光らの抜擢に譜代の家臣からの不満が高まり、遂には義宣と政光の暗殺を企てた家老・川井忠遠らが逆に粛清されるという事件(川井事件)まで起こっている。この影響で政光の家老昇格は一旦見送られ、正式に家老に任じられたのは慶長12年(1607年)だった。

政光は久保田城築城に際して梶原政景と共に縄張に従事。また検地制度の改革などを実施して、農業生産と藩財政の安定に尽力した。これを渋江田法(しぶえでんほう)と呼んで、他藩や江戸幕府も農業政策の参考にしたといわれている。林業政策にも携わり、「国の宝は山なり、然れども伐り尽くす時は用に立たず、尽きざる以前に備えを立つべし、山の衰えは即ち国の衰えなり」という言葉を残している。

慶長19年(1614年)、主君・義宣と共に大坂冬の陣に出陣し、今福において後藤基次木村重成と激突した(今福の戦い)。この際、主君を守って奮戦した政光であったが、最後は流れ弾を受けて[4]戦死した。享年41。

子孫

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政光の死後は、義宣より偏諱を受けた嫡男・宣光(のぶみつ)が跡を継いだ。しかし宣光は嗣子なくして死去し、庶子のため跡目から外されていた長男(宣光の兄)の光久(みつひさ)がその跡を継いでいる。渋江宗家は幕末までに藩内最多となる8人の家老を輩出し(政光、光久、隆光、処光、格光、峯光、明光、厚光)、分家も多く、家中屈指の名家として梅津宗家と並び「大渋江」「大梅津」と称されるようになった[5]

屋敷

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渋江宗家の屋敷は、江戸時代を通じて久保田城三ノ丸下中城の西側高台(現在のあきた芸術劇場ミルハス所在地)にあった[5]。本丸が火災に遭った時は藩主の仮御殿として使われ、明治維新後も伝習学校や秋田県公会堂など大規模な施設が置かれる一等地であった[5]

顕彰

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  • 2020年度林業遺産(渋江政光の林業思想に関する古文書及び石碑)[6]

関連作品

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マンガ

脚注

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  1. ^ 小場義宗養子、義成養弟。
  2. ^ 庶長子、初め荒川光康といい、のちに宣光の後を継ぐ。
  3. ^ 「政」の字はこれ以前に小山秀綱の子・政種から偏諱を受けた可能性もある。
  4. ^ 『大坂御合戦実録』の記述による。一方、『国典類抄』に記載されている、義宣の命で政光の死骸を検視した須田伯耆の言では「何れも槍疵であり、鉄砲疵はなかった」となっている。秋田県公文書館 - 古文書倶楽部(バックナンバー) - 古文書倶楽部 第7号
  5. ^ a b c 渡部 1983, pp. 53–54
  6. ^ 2020年度林業遺産(No.43)秋田藩家老渋江政光の林業思想に関する古文書及び石碑”. 日本森林学会 (2021年). 2021年6月19日閲覧。

出典

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  • 渡部景一『図説 久保田城下町の歴史』無明舎出版、1983年2月。ISBN 978-4-89544-499-6