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渋沢宗助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渋沢 宗助
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 寛政6年12月2日1795年1月22日
死没 明治3年12月2日(1871年1月22日)
別名 徳厚()、誠室
岡部藩
父母 渋沢宗助 (2代目)
兄弟 宗助文左衛門市郎右衛門、男子、新島氏妻、やゑ(尾高勝五郎の妻)、こま(福田彦四郎の妻)、高橋氏妻、須永惣次郎妻、
渋沢宗助 (4代目)渋沢宗助 (5代目)、さく(諸井恒平の母)
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渋沢 宗助(しぶさわ そうすけ)は、江戸時代後期の武蔵国榛沢郡血洗島村名主養蚕家誠室と号した。渋沢栄一の伯父、澁澤龍彦の高祖父にあたる。

略歴

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渋沢家は血洗島村の名主の家柄で、村内の4分の1を占める大姓だった。織田完之によれば甲斐源氏の末裔で、室町時代には関東管領上杉氏に仕え、天正年間より同地に住んだ一族という。宗助の家は「東の家」と呼ばれる分家筋にあたり、渋沢宗助政徳の長男として生まれた。本家筋の「中の家」に男子がなかったため、次弟の元助が入婿して市郎右衛門美雅と称しており、その子が渋沢栄一である。また長弟文左衛門の子が渋沢成一郎、姉妹の子に尾高惇忠長七郎(渋沢)平九郎兄弟、須永伝蔵(於菟之輔)・渋沢市郎(2代目)兄弟などがいる。中の家は当時家運衰退しており、経済的には東の家が渋沢一族で最も裕福だった。後年、中の家は弟市郎右衛門の尽力により復興したが、それでも東の家が随一だったという。

書を中村仏庵に学び、柳公権顔真卿を能くしたという。上野国信濃国などの養蚕地から技術を学んで養蚕技術の改良を考案し、安政2年(1855年)「養蚕手引抄」を出版した。また寺子屋や剣術道場の練武館を作って子弟の教育にも尽力した。

晩年となる明治維新後、市郎右衛門・栄一親子と協力して横浜に商店を開き、また古河市兵衛に接近して蚕卵紙の輸出に携わった。

逸話

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  • 甥の渋沢栄一は当初栄治郎と称していたが、宗助によって栄一と名を改めている。後に栄一が士分に列すると名乗り(通称)を武士風(篤太夫、篤太郎)に改めているが、栄一の名は(源栄一、みなもと の ひでかず)として引き続き使用し、維新後も本名とした。栄一は談話として、宗助から書を習ったことを回想している。
  • 妻は熱心な信仰家だったらしく、加持祈祷に傾倒していた時期があった。姪が病気になった際、遠加美講という修験者を呼び寄せて加持祈祷をさせようとしたが、姪の弟の渋沢栄一が修験者を論破してしまったため、以後は加持祈祷に執心しなくなったという。

親族

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登場作品

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参考文献

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