渋谷庄三郎
渋谷 庄三郎(しぶたに しょうざぶろう、1821年 - 1881年5月2日[1][2])は、日本の実業家。1872年(明治5年)、大阪市堂島に日本人としては最初のビール醸造所である「渋谷ビール製造所」を建て[3]、渋谷ビールを商業販売した[1]。
経歴
[編集]渋谷は、大阪市内で綿卸商を営むと共に、一方で大阪府管轄の官製組織である大阪開商社にも出資していた[1]。渋谷は大阪開商社で「頭取並」という役職に就き、綿産業を担当した[1]。
1871年頃から大阪開商社工業部の事業としてビール醸造計画が立ち上がり、アメリカ合衆国からビール醸造技師を大阪へ招いた[1]が、大阪開商社のビール醸造計画は中止となる[1]。渋谷の生家は酒造業も兼業しており、自身が醸造への興味を抱いていたことと、他の頭取たちの勧めもあって、個人でビール醸造計画を引き継ぐことになった[1]。
大阪市堂島に渋谷が私有していた土地に、蔵を改装して[3]ビール醸造所を建て、前述の招聘したアメリカ人技師ヒクナッツ・フルスト[4]から技術指導を受けて醸造を開始した[1]。ホップの種子をアメリカから輸入し、醸造所構内で栽培も試みている[1]。1872年には、「渋谷ビール」の販売にこぎつける。1869年にウィリアム・コープランドが横浜でビール醸造を開始しているが、日本人による商業用ビールの醸造、販売は渋谷ビールが初の事例となる[5]。
しかし、当時の一般の人からはビールは「苦い」といわれて嫌がられており、主に訪日外国人や中之島の料亭に向けて販売されていたが、経営は振るわなかった[1][6]。1881年に渋谷が亡くなると渋谷ビールの醸造、販売も終了、堂島の醸造所も閉鎖された[1][6]。跡地(堂島1丁目、ANAクラウンプラザホテル大阪北東付近)には「国産ビール発祥の地」という碑と解説板が置かれている[3][7][8]。碑は大阪市教育委員会が設置しており、「日本人による商業生産」として初めての意で「発祥」と称している[8]。
渋谷は、大局を見て、小事に拘らず、ほとんどの事を部下に一任するといった、いかにも名家の風格を有していた、清廉潔白で他人を一度信用したならば、決して疑わない人物であったと評されている[6]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l “渋谷庄三郎 日本人の手による初の商業ビール醸造を手がける”. 麒麟麦酒. 2017年12月19日閲覧。
- ^ “麒麟麦酒(株)『麒麟麦酒株式会社五十年史』(1957.04)”. 渋沢社史データベース. 2017年12月19日閲覧。
- ^ a b c “国産ビール、150年の夢 「発祥の地」、大阪で先祖の挑戦継ぐ”. 朝日新聞デジタル. (2022年4月23日) 2022年5月3日閲覧。
- ^ 濱口和夫「38 国産ビールのことはじめ」『ビールうんちく読本』PHP研究所、1992年。ISBN 9784569564821。
- ^ 藤沢英夫. “ビール醸造設備発展の系統化調査” (PDF). 国立科学博物館. 2017年12月19日閲覧。
- ^ a b c 宮本又次『てんま 界隈 大阪天満宮』〈風土記大阪 第3集〉1977年、93-94頁。
- ^ “大阪市史跡探訪(22) 北区”. 大阪日日新聞. (2021年11月28日) 2022年5月8日閲覧。
- ^ a b 倉辺洋介 (2015年9月5日). “関西に「国産ビール発祥地」?(謎解きクルーズ) 苦い失敗も…商魂支えに”. 日本経済新聞 2022年5月8日閲覧。
参考資料
[編集]- 「桜井谷村出身の実業家 渋谷庄三郎〜わが国ビール醸造の創始者」『新修豊中市史』 第8巻 社会経済、豊中市。